議会開設には自発的結社と討論が必要、交詢社を組織2021/03/11 07:15

 「公議輿論と討論のあいだ―福澤諭吉の初期議会政観―」の第三節は、「仲間の組合」と討論―国民国家の構成原理として。 福澤は、同時代の英国政治の基本原理を「平均」―抑制と均衡―としてとらえていた。 そして、同時代に英国を見聞した人々の中でひとりだけ、議会とならんで、それぞれ公共的機能を分担する自治的諸団体もまた、政府権力に対する抑制の機能を営んでいることを理解し得たのだった。 慶應義塾という自発的結社を組織し、その同志的結合を場とした演説・討論の練習を経て、福澤の英国社会政治像はさらに発展した。 商業も学問も宗教も地域社会の行政も、その他公共的活動は全て、自発的結社によって担われる。

 議会政は、一国人民全体の「習慣」を通じて形成された「俗」―文化の型―としてとらえられた。 議会は、その、政治という一領域における現れであり、国民社会全体の「俗」に裏付けられてはじめて十分に機能しうるものだった。 福澤が、このように西欧議会政を視野に入れて、国民国家を「始造」しようとした時、自発的結社と討論は、国民国家の形成原理にまで高められた。 福澤は、自発的結社という新しい集団形成によって「政治的に議論する市民的公衆」(ユルゲン・ハーバマス)―福澤の言葉を引けば、政府と「平均」して国民国家を主体的に担う「国民(ネーション)」―を創出しようとしたのである。 しかも福澤は、このような政治についての討議の「習慣」を、彼の時代の日本において創出する上での、固有の条件と方法についてはっきりと認識していた。

 福澤は、日本が政府「偏重」の国であり、同時代の民権論者も政府の政に熱中して自分たちの領分を放却しているのを憂慮していた。 そのような状況で打ち出されたのが「平民の政」を、という政策だった。 自治的団体を、何よりも政治以外の領域に創り出すことを当面の課題とした。 このような団体の活動が、結果として政府と国政に影響する、「間接」の結果を福澤は、高く評価した。 一国人民全体の間に「衆議の法」を「俗」として根づかすという遠大な目標への道は、このような地点から始めなければならなかったのである。

 福澤は、明治10(1877)年に刊行した『分権論』で、初めて議会制度についての具体的なプランを公けにした。 先ず、地方行政=「治権」に参加する地方議会を開設して、「政権」を集中した中央政府と拮抗させ、地方議会での経験に習熟した上で、中央に政府と拮抗する国会を設けるという構想である。 しかし、明治11(1878)年の『通俗国権論 二編』、明治12(1879)年の『国会論』では状況に応じて大きく修正され、早急の国会開設と議院内閣制という新しい構想が打ち出された。 だが、政府も人民も「会議」に未習熟で、「儀式体裁」の整備だけにも時間がかかるのが憂慮され、当分の間、国会は討論に未習熟な人々を「議事」の実際の中で訓練する「調練」の場にならざるを得ないことを見通していた。

 これと並行して福澤は、明治12(1879)年夏から慶應義塾「社中」の同志にはかって新しい「結社」の準備を始め、明治13(1880)年1月、交詢社を組織し、交詢社はただちに全国的な組織へと発展した。 交詢社は、家族友人という第一次集団と政府との中間領域を場として、「知識交換世務諮詢」により「相保護」し、協力して「公利」を確保増進する新しい組織だった。 それは慶應義塾創設以来の、討論によって「平民の政」を行い、国民国家の公共活動を担ってゆく自発的結社という理想の全国的規模での具体化だった。

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