ZOOMで小室正紀さんの「摂州三田藩の人々と福澤諭吉」 ― 2021/03/27 07:11
20日の土曜日、いつもなら慶應大阪シティキャンパスで開催される慶應義塾福澤研究センターの講座が、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、オンラインで開催されるというので、初めてZOOMなるものを使って参加、拝聴した。 「関西の福澤山脈」シリーズ、小室正紀慶應義塾大学名誉教授の「摂州三田藩の人々と福澤諭吉」、午後2時から4時までの配信、初めてなので1時過ぎに試しにつないで確認した。
三田(さんだ)には、2004年秋、福澤諭吉協会の第39回史蹟見学会、大阪・三田・宮津方面への旅行で、行ったことがあった。 三田(さんだ)の発音はパンダと同じだと聞いた。 三田では市史編纂室長や図書館長を務めた岸田達男さんが同行解説をしてくれた(今回の講座の参考文献にお名前があった)。 福沢が旧三田藩主九鬼隆義と親しくなったきっかけははっきりしないが、おそらく三田藩出身で蕃所調所教授の川本幸民(文化7(1810)年~明治4(1871)年)の紹介によるものだろうという。 川本は福沢の恩師緒方洪庵と、坪井信道塾の兄弟弟子だった。 三田城跡近くの川本幸民顕彰碑を見たが、川本は日本で最初にビールやマッチや写真機をつくり、「麦酒」「化学」という翻訳語は川本によるものだという話だった。
小室さんの講演、福沢が万延元(1860)年に幕府の翻訳方に出仕した時、幸民は一世代上の上役、蕃書調所教授、福沢の言葉で「主任教頭」だった。 三田藩は、現在の三田市を城下とする三万六千石、藩士168名の藩、九鬼隆義(天保8(1840)年~明治24(1891)年)は最後の藩主で、西洋化について先進的な藩・藩主だった。 『福澤諭吉書簡集』の九鬼隆義や白洲退蔵(側用人、筆頭家老、筆頭マネージャー)宛の手紙によれば、福沢と九鬼隆義が明治2(1869)年11月にはすでに親しく、隆義が上京したときは福沢を訪ね、福沢の家に泊まることもあり、明治5年には福沢が三田(さんだ)へ隆義を訪ねている。 福沢は、隆義に『西洋事情』『中津留別之書』『学問のすゝめ』を送って文明論に導き、三田(さんだ)での洋学校開設計画に際しては、「人を治めるの君子」を引き立てるより「人に治めらるゝ小人」の教育が必要だとして、優れた指導者・エリートがいればよいという儒学の考え方から「人民」こそが重要だと、江戸時代の教育方針を180度転換して、一般の人民の教育が大切だと説いた。 福沢は隆義の純粋な人柄(「性質の美にして君子の風ある」)を愛していたが、その資産運用を心配して、忠告役を引き受けるという手紙を白洲退蔵に書いている。
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