旧三田藩とキリスト教、学校、北海道開拓 ― 2021/03/29 07:02
小室正紀さんの講演で、初めて知ったのは、九鬼隆義を始めとする三田藩の人々とキリスト教の関係だった。 キリスト教もまた、近代文明を覗く窓口だった。 明治5(1872)年に神戸で米国伝道会宣教師による学校が設立されたが、その中心人物が旧三田藩士前田泰一(明治4年慶應義塾入社)だった。 明治6(1873)年前田泰一の父の家に米国女性宣教師(E・タルカット、J・ダッドレー)による女学校開設(神戸女学院の前身)、翌年、同女学校は白洲退蔵の持ち家に移転、隆義夫人と息女がしばしば聴講した。 明治8(1875)年、同校が本格的校舎「神戸ホーム」(寄宿学校)を建設したが、隆義・前田泰一・鈴木清が多額の援助をした。
その年には、三田藩陣屋跡に摂津第三基督公会(三田)ができた(前年の第一(神戸)、第二(大阪)に次ぐ)。 摂津第一基督公会(神戸)で最初に洗礼を受けた者の大半は、旧三田藩・慶應義塾出身者だった。 九鬼家では、明治6(1873)年、隆義の長女肇(ちょう)夭折の際、キリスト教式の葬礼をした。 隆義は息子に西洋風の名前、摩爾(マルー、明治15年幼稚舎入塾)、亜礼(アレー、16年入塾)を付けた。 隆義自身は、明治20(1887)年に入信している。
北海道開拓事業は、明治13(1880)年、ピューリタン精神を背景に開拓結社として、入植者1人1人も株主の株式会社、赤心社として組織された。 設立者は、初代社長の鈴木清も含み、旧三田藩士が中心で、第一回株主総会で九鬼隆義・白洲退蔵も委員(取締役)になっている。 現地で開拓指導に当たったのは、福沢門下の沢茂吉だった。
沢茂吉は、旧三田藩士で、明治4(1871)年から2年間慶應義塾に在籍した(入社帳に名はないが、よくあること)。 牧畜業を志し、奈良の牧牛場で蘭学者につき育牛や練乳法を学んだ。 明治8(1875)年、摂津第三基督公会設立に際して受洗。 牧牛で独立するも、牛の流行病で損失し貧困に陥っていたところ、明治10(1877)年九鬼家が神戸で牧牛を開始する報に接した福沢が、白洲に沢茂吉を「境涯を気の毒に思ひ、常に忘るゝ能はず」「少年の時より私の知る所」の人材として推薦した。 沢は明治10年から12年、「神戸ホーム」で数学・漢文を教える。 そして15年赤心社に入社、北海道開拓部長として83名を率い浦河荻伏に入植。 酷寒の原野で未曽有の困苦、松方デフレの下での経済苦境に耐え、明治20年代中頃には事業を軌道に乗せた。 明治29(1896)年、福沢は沢から送られた北海道名産のお礼のハガキに、「人生の独立、口に言うは易くして実際に難し。二十年の久しき、ご辛抱一日の如し。敬服の外御座無く候」と書いた。 日清戦争後の好景気に狂乱し、「私徳」を忘れた経済人の行動に眉を顰めていた福沢にとって、沢のストイックな20年の苦闘は清々しく映ったのであろうとして、小室正紀さんは、これを「福沢書簡の中で最も簡潔にして高い人物評価」と述べた。
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