旧三田藩との関係で見えてくる福沢諭吉2021/03/30 07:14

 小室正紀さんは講演「摂州三田藩の人々と福澤諭吉」のおわりに、福沢の旧三田藩との関係で見えてくるものをまとめた。

 (1)福沢にとって士族層を啓蒙することは、日本の文明化のための重要な課題だった。 士族層(=知識層)を近代経済人へ。 もう一つのチャンネルは、農工商を近代知識人へ。

 (2)有効なものとして旧藩主従単位への働きかけも。

 (3)経済的な中産階級が未成熟な中で、「民間」による文明事業を推進するために、旧大名華族の資産を生かす道を考えていた。 カッコつきの「民間」は、政府でないがお金を持っている。

 (4)教条的に旧体制を否定するのではなく、それを利用しつつ内実を変えようとする福沢の現実主義。

 27日の始めに書いたように、私は2004年秋、福澤諭吉協会の第39回史蹟見学会、大阪・三田・宮津方面への旅行に参加させて頂いた。 大阪で「小寺篤兵衛の家」にあったという大阪慶應義塾跡へ行き、中央区北浜2丁目の小寺プラザというビルで、心臓バイパス手術直後だという小寺興産社長小寺良和さんの説明を聞いた(小寺さんは、偶然、私と同期の卒業だった)。 今回の小室正紀さんの講演で、神戸の土地投機に力のあった三田藩の小寺泰次郎という人物と名前を知り、神戸の小寺と、大阪慶應義塾の小寺は、関係があるのだろうか、と思った。 そこで、小室正紀さんにお尋ねしてみると、ご丁寧なお答えを頂いたので、ご参考までに以下に引かせて頂く。

 小寺篤兵衛と小寺泰次郎とは、たぶん関係ないのではないか。 大阪慶應義塾は明治6年開校で、その時に小寺篤兵衛はすでに大阪にいたはずである。 しかし、小寺泰次郎ら旧三田藩士が志摩三商会を神戸に設立して、本格的に事業に乗り出すのも明治6年で、その時は神戸の事業で手いっぱいで、同時の例えば小寺の弟などいて大阪でも家主になったとは考え難いと思われる。 泰次郎は、その後も神戸で活動し神戸市議会副議長などをつとめたようで、現在神戸にある相楽園という庭園は泰次郎の屋敷だったところだそうだ。 泰次郎の長男謙吉は神戸市長や衆議院議員になっており、次男の壮吉と三男の又吉は事業家だったようだが、子孫には小寺篤兵衛という者はいないようだ。