関容子さん「銀座で逢ったひと」の「早坂曉さん」2021/04/06 07:11

 関容子さんが『銀座百点』に連載している「銀座で逢ったひと」の巧さには、いつも感心するのだが、3月号の「早坂曉さん」には、とりわけ感じ入った。 脚本家・早坂曉さんも、早坂さんと親しかった渥美清さんも、歌舞伎座のかなり後方の角席に一人で、全身で周囲の人の眼を拒むような姿勢で、じっとしていたという。 渥美さんがその夏に68歳でなくなった平成8年の秋、そんな早坂さんを角席に見つけて、渥美さんの思い出を聞いた。 「渥美ちゃんと出逢ったのは浅草の銭湯の中でね、当時僕は学生運動で公安からマークされていたんで、浅草に潜伏していた。それで昼間のすいているときに銭湯に行って、じっと湯舟に身を沈めていたら、ドーランの化粧のままの四角い顔の男がポチャンと横に入ってきたんで、僕は自然と顔をそむけたら、どしたい、兄ちゃん、なんかまずいのか? って。ちょうどフランス座というストリップ劇場でつなぎのコントに出てるころで、僕より一つしか上じゃないのに、かなり兄貴に見えた。金はあるのかい、って訊いてくれて、上野の稲荷町にあった生家まで一緒にブラブラ歩いて、おふくろさんに玄関で、こいつ困ってるらしいから小遣いやってよ。それで外へ出るとすぐ、いくらもらった? 半分よこせよ、って(笑)」

 関さんは、それからしばらくして、早坂さんに声をかけてもらって、富山のチューリップテレビのドラマ審査員として同行した。 うす暗い一室にこもって、ヘビースモーカーたちとテレビの画面と睨めっこ、とうとう三日目の午後、具合が悪くなって別室で休んでいた関さんのところに、早坂さんがドラマの概要とその評価を記したメモを持ってきてくれた。 関さんの脳裏に十歳上の兄がよく宿題をやってくれた昔が甦り、五十歳で早逝した兄のことを夢中で早坂さんに語り続けた。 小学校にも行かないころ、今にお兄ちゃんのお嫁さんになる、と言ったら、母が「何言ってんの、お兄ちゃんのお嫁さんにはなれないんだよ」と笑うので、子どもの幼い頭で一生懸命考えて、それなら私、電気屋の伯父さんちにもらわれて行く。ちょっとの間離れていれば、あとはずっと一緒にいられるから……って。そしたらまた母が、「何言ってんの、この子は。そうはうまくいかないの」って。 早坂さんはちっとも笑わず、しんみりとなってこう言った。 「東京でいつか僕の妹の話をするよ」

 早坂曉さんは昭和4年8月、四国遍路道の商家、勧工場という小規模な百貨店の前身のような店に生まれた。 ある朝、店の前に女の赤ちゃんが捨てられていた。 そのままうちの実の子どもとして育てられ、まっすぐに、明るい女の子に育った。 早坂さんは、旧制松山中学校を卒業し、海軍兵学校に在学中に終戦となり、帰郷することになる。 「夜遅く、列車が広島駅をゆっくりゴトンゴトンと通過するときに、窓から見た光景は、今思ってもゾッとする。青い燐光のような、地獄の業火のような、これが鬼火かというようなものが、一面の焼野原のあちこちから燃え立っていて……」

 早坂さんは母親が見てもすぐにはわからないくらい痩せ衰えて帰ったが、そこには妹の姿がない。 「母が言うには、空襲がいよいよ激しくなって、いつ死ぬかわからないようになってきたので、ある朝、こんなふうに言ったそうです。これまでかくしてきたけれど、実はお前は捨てられていた子で、私たちと血のつながりはないんだよ、だからお聞きよ、お兄ちゃんのことを本当に好きになってもいいんだよ、って。妹の顔がパッと輝いて、どうしても海軍兵学校へ面会に行く、と言い出して、いくら止めても聞かないで、うちを出たのがよりによって原爆投下の前日、8月5日のことだったとか」

 広島に着くのが予定より遅くなり、女の子のことなのでやむなく宿屋に一泊、翌朝早く兵学校(江田島)を訪ねるつもりだったのだろう、それがまたよりによって、爆心地に近いところに宿屋がたくさん集まっていて、と早坂さんは悔しがる。

 平成29年12月、早坂曉さんは腹部大動脈瘤破裂のため88歳で急逝した。 その二日前、代表作『花へんろ』の特別編、最後の脚本『春子の人形』が出来上がっていた。 翌年8月、放送されたドラマで、関容子さんは「春子という名前と、赤子が人形と一緒に生家の軒下に置かれていたこと」を知る。 もし、早坂さんがご存命なら、放送のあとにきっと電話があったことだろう、という。 それもいつものように、「もしもし、妹……さんですか」という呼びかけで。