国際法、「開国」の本当の意味 ― 2021/04/17 07:05
アメリカとの通商条約締結もやむなしと考えていた堀田正睦閣老は、溜間詰の大名たちの意見を聞きながら、11月6日、土岐頼旨、川路聖謨、鵜殿長鋭(ながよし)、井上清直、永井尚志(なおむね)の5人を派遣して、ハリスに条約の締結外交上の手続きについて質問させた。 和親条約を結ぶと、公使は、お互いの首都に置くものか。 公使(ミニストル)と領事(コンシュル)の違い。 西洋諸国は「公使」をどのように取り扱うのか。 ハリスは、「万国普通之法に従い、取扱い申し候」、西洋諸国家「間」(インターナショナル)に普遍的に通用している国際法(万国公法)によると、答えたのだ。
この答は、国内法によって政治を行ってきた幕閣たちの思いもよらない、まったく新しい考え方だった。 日本は徳川期を通じて、長崎の出島によって中国(清)やオランダとの交流、交易を行なっており、まったく国を鎖していたというわけではなかった。 しかし、それは二国間関係の交流、貿易だった。 西洋諸国家「間」に国際社会(International Society)が存在し、そこには共通の法(International Law)がある。 そのことは、鎖国策をとる日本にとって、想像外のことであった。 日本が「開国」路線をとった本当の意味が、いま現れつつあった。
幕府は、列強の諸国家「間」には国際政治があり、それを統制し調整すべき国際法というものが存在するという事実を、アメリカ領事ハリスから初めて教えられたのである。 もちろん、国際法というのは実定法であって、時々刻々に改定されてゆくものであるが、それを改定してゆくのも諸国家「間」の国際社会という存在であった。
幕府の外交担当者たちの「国際法(万国公法)とは何か」という質問に、ハリスは国際法上の「公使」の駐在国での権利とは何か、といったきわめて実際的な答をした。 「公使」(その家族も)は駐在国の国内法によって拘束されない。 「公使」の許可なく、外の人が館内に立ち入れない。 公使館やその家族の居住地は、すべてその自国と同様の扱いになる、と。
ともかく、ハリスはこの会合で、早急に「日米修好通商条約」を結んで、公使の首都駐在と、自由貿易を開始すべきことを力説して、その結果、1か月後の条約交渉に大きな影響を与えるのだが、それと同時に、この11月6日の会合の重要性は、幕閣に国際法(万国公法)の存在とその概念をふかく浸み込ませたことである。
福沢諭吉と万国公法<等々力短信 第1142号 2021(令和3).4.25.> ― 2021/04/17 07:35
大河ドラマ『青天を衝く』第6回「栄一、胸騒ぎ」の「紀行」で、下田の玉 泉寺のハリスの顕彰碑を渋沢栄一が建てたことを知り、渋沢栄一記念財団のホ ームページを見たら、「タウンゼンド・ハリス記念碑建設」(渋沢栄一伝記資料) となっていた。 ずっとタウンゼント・ハリスだと思っていたのだが、「タウン ゼンド・ハリス」(Townsend Harris)だった。 安政元(1854)年3月のペ リーとの日米和親条約締結の結果、安政3(1856)年7月、下田に着任したア メリカ総領事のハリスは、「日米修好通商条約」の締結をもくろんで、大統領の 国書は江戸にいる国王(将軍)がみずから受け取るべきだと主張し、交渉を重 ね、江戸出府を実現する。 箱根関所通過の際の点検拒否、江戸の宿舎の護衛 問題などで、外国使節に対する応接も「各国共通の礼式」を用いるべきだと主 張した。 堀田正睦老中筆頭以下の外交担当者は、修好通商条約交渉の過程で、 ハリスから列強の諸国家「間」には国際政治があり、それを統制し調整すべき 国際法(万国公法)というものが存在するという事実を、初めて教えられたの であった。
福沢諭吉は、どうか。 『福澤諭吉事典』の事項索引には「国際法」も「万 国公法」もない。 もっとも安政元年は蘭学に志し長崎に出た年だし、安政3 年は大坂の適塾にいて、腸チフスにかかった年。 修好通商条約批准交換の咸 臨丸渡米と帰朝後の翻訳方出仕が万延元(1860)年だ。 『西洋事情』を『福 沢諭吉選集』第一巻で見る。 初編は慶應2(1866)年6月脱稿、初冬刊。 慶 應4(1868)年夏刊の外編巻之一に「各国交際」がある。 「世の文明に進む に従て一法を設け、これを万国公法と名(なづ)けり。抑(そもそ)も世上に 一種の全権ありて万国必ず此公法を守る可しと命を下すに非(あら)ざれども、 国として此公法を破れば必ず敵を招くが故に、各国共にこれを遵奉せざるもの なし。各国の間、互に使節を遣(やり)て其国へ在留せしむるも、其国々互に 公法の趣意を忘るゝこと無(なか)らんが為めなり。故に両国の間に怨(うら み)を結ぶと雖(いえど)も、使節は敵国に在留して更に害を被(こうむ)る ことなし。」
『選集』第一巻、松沢弘陽さんの解説を読む。 福沢は、日本は国を開いて 西洋諸国の「附合」に加わるよう勧めた。 遣欧使節一年の旅で、西洋諸国の 国際関係――力と力がしのぎを削る権力政治によって支配されながら、それに もかかわらず「世界普遍の道理」が強国をも弱小国をもひとしく規制している という構造――を身をもって学んだ。 チェンバーズ『政治経済学』の国際政 治論で、権力均衡の原理により、強弱大小異なる諸国が「条約」によって、「各 国附合」を取り結ぶことが可能だと学び、「世界普遍の道理」と「万国公法」を 信頼すれば、開国は有益で恐れるに及ばないとした。
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