「福沢諭吉はお風呂屋(銭湯)を経営していた!」の疑問 ― 2021/04/23 07:08
「福沢諭吉 銭湯」でネットを検索すると、川崎市幸区塚越、南武線の矢向の近くにある「縄文天然温泉 志楽の湯」の「志楽ニューズレター第十七号」(2018年8月3日)というブログに、「福沢諭吉はお風呂屋(銭湯)を経営していた!」があった。
そこに、出典が明記されている引用があった。 『公衆浴場史』(全国公衆浴場業環境衛生同業組合連合会、1972年)に、こうあるそうだ。 「明治8、9年頃に福沢は、慶應義塾の向かい、(東京港区)三田通りにあった湯屋を譲り受ける形でオーナーになったとのことです。一カ月、十円五十銭の揚銭(家賃)でお風呂屋に貸していたそうで、福沢本人が番台に座ることはなかったようですが、近所の住民や慶應義塾の塾生、三田付近に住む下宿生をはじめ様々な人々が五厘で利用したといわれています。」
そのあと、『公衆浴場史』からの引用なのか、はっきりしないが、「福沢は、自由平等論から職業に貴賤はないと説き、その垂範として自ら銭湯を経営したといわれています。そして、銭湯の入浴や経営の経験から、人々に自由平等を説明するために「私権論」という論文に、次のような一説を記しています。」
「銭湯に入る者は、士族であろうが、平民であろうが、みんな等しく八文の湯銭を払い、身辺に一物なく丸裸である。また同じ湯槽にはいっているではないか。それなのに、どうしてか、平民は士族の人に旦那、旦那と尊敬してよび、士族は平民の人たちを貴様、貴様と軽蔑しても、平民はただただ恐縮しているのはなぜか。銭湯の入浴には、なんら上下の区別なく平等であり、かってにはいっても、出ても自由である。」
私が調べたところでは、福沢諭吉に「私権論」という論文が、見つからない。 文章も、どことなく現代風である。 五厘と八文、時代はどれだけ違うのか。 「私権論」が、『福澤諭吉全集』のどこにあるのか、ご存知の方は、ぜひご教示願いたい。
『福翁自伝』に、同じような内容のエピソードがある。 「雑記」の「路傍の人の硬軟を試みる」の小見出しの部分だ。 明治5年4月(4年と『自伝』ではなっているが)、大阪から摂州三田(さんだ)まで行った道すがら、緒方洪庵未亡人が(福沢が)病後なので手配してくれた駕籠を下りて、こうもりがさ一本持って歩いている途中に、前から来る百姓などに道を聞いてみた。 士族風に横風に言葉も荒く聞くと、まことに丁寧に道を教えてくれてお辞儀して行く。 さかさまに「モシモシはばかりながらちょいとものをお尋ね申します」というような口調で聞くと、なかなか横風でろくに会釈もせずにさっさと別れて行く。 およそ三里ばかり歩く間、人が来るたびに試みると、みんな思うとおりになった。
「ソコデわたしの心中ははなはだおもしろくない。いかにもこれは仕様のないやつらだ。だれもかれも小さくなるなら小さくなり横風ならば横風でよし、こうどうも先方(さき)の人を見て自分の身を伸び縮みするようなことでは仕様がない、推して知るべし地方小役人らのいばるのも無理はない。世間に圧制政府という説があるが、これは政府の圧制ではない、人民の方から圧制を招くのだ、これをどうしてくれようか、捨てようといって、もともと見捨てられるものでない、さればとてこれを導いてにわかに教えようもない、いかに百千年来の余弊とはいいながら、無教育の土百姓が唯むやみに人にあやまるばかりならよろしいが、先き次第で強傲(きょうごう)になったり柔和になったり、まるでゴム人形見るようだ。いかにもたのもしくないと大いに落胆したことがあるが、変れば変わる世の中で、マアこの節はそのゴム人形もりっぱな国民となって、学問もすれば商工業も働き、兵士にすれば一命を軽んじて国のために水火にも飛び込む。福沢がこうもりがさ一本でいかに士族の声色を使うても、これに恐るる者は全国ひとりもあるまい。これぞ文明開化の賜(たまもの)でしょう。」
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