昭和天皇と日米開戦2021/04/27 07:04

 保阪正康さんの『陰謀の日本近現代史』、第1章は「仕組まれた日米開戦」である。 日本の暗号電報がすべてアメリカに読まれていたことも重要だけれど、ここでは昭和天皇と開戦の関係に絞って、読んでみたい。 その前に、以前、昭和天皇はどう語ったか<小人閑居日記 2015.8.13.>で、『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』(文藝春秋・1991年)によって、そのへんの昭和天皇の証言を書いたのをふりかえっておく。 昭和天皇は、「二・二六事件(昭和11(1936)年)と終戦の時との二回丈けは積極的に自分の考を実行させた。」と語っている。 開戦については、そうではなかったことになる。

     ○9月6日の御前会議(昭和16(1941)年)

 「九月五日午後五時頃近衛(文麿首相)が来て明日開かれる御前会議の案を見せた。之を見ると意外にも第一に戦争の決意、第二に対米交渉の継続、第三に十月上旬頃に至るも交渉の纏らざる場合は開戦を決意すとなつてゐる。之では戦争が主で交渉は従であるから、私は近衛に対し、交渉に重点を置く案に改めんことを要求したが、近衛はそれは不可能ですと云つて承知しなかつた。」「私は軍が斯様に出師準備を進めてゐるとは思つて居なかつた。」

 「翌日の会議の席上で、原(嘉道)枢密院議長の質問に対し及川(古志郎軍令部総長)(馬場註・永野修身軍令部総長か?4月28日に触れる)が第一と第二とは軽重の順序を表はしてゐるのではないと説明したが、之は詭弁だ、と思ふ。然し近衛も、五日の晩は一晩考へたらしく翌朝会議の前、木戸(幸一内大臣)の処にやって来て、私に会議の席上、一同に平和で事を進める様諭して貰ひ度いとの事であつた。それで私は豫め明治天皇の四方の海の御製を懐中にして、会議に臨み、席上之を読んだ。」

 〈注〉明治天皇の御製<四方の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさはぐらむ>

      ○開戦の決定(昭和16(1941)年)

 「実に石油の輸入禁止は日本を窮地に追込んだものである。かくなつた以上は、万一の僥倖に期しても、戦つた方が良いといふ考が決定的になつたのは自然の勢と云はねばならぬ、若しあの時、私が主戦論を抑へたらば、陸海に多年錬磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈服すると云ふので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデタが起つたであらう。実に難しい時であつた。その内にハルの所謂最后通牒が来たので、外交的にも最后の段階に立至つた訳である。」

 「十二月一日に、閣僚と統帥部との合同の御前会議が開かれ、戦争に決定した、その時は反対しても無駄だと思つたから、一言も云はなかつた。」

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