昭和天皇は、戦争に反対だった2021/04/28 07:07

 そこで、保阪正康さんの『陰謀の日本近現代史』第1章に戻る。 昭和16(1941)年7月2日に決まった「帝国国策要綱」では「第1項は対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に、10月下旬を目途に戦争準備を完整する。第2項は外交交渉に専念する。第3項は10月上旬に我が要求を貫徹し得ざる場合、戦争を決意する」となっていた。

9月6日の御前会議の3日前、どのような決定を御前会議で示すべきかの最終調整のために大本営政府連絡会議が開かれた。 まず、永野修身海軍軍令部総長が、外交の見込みがない後は即時開戦、今ならば戦勝のチャンスがあると述べた。 杉山元(はじめ)陸軍参謀総長は、外交交渉がズルズル延びるのに反対で、北のソ連との戦争を考えて、南には早くに作戦を進めるべきだと主張した。 統帥部は天皇の前で、開戦を早く決意すべきであるとの論を展開することを明らかにしたのだ。 及川古志郎海軍大臣は、第3項の「我が要求を貫徹し得ざる場合」という一節に疑問を示し、「我が要求が貫徹し得る目途なき場合」と直してほしいと要求した。 海軍省としては、こうしておけば10月下旬になった段階で、目途があるかないかの議論ができ、開戦に歯止めをかけられると読んだのである。 近衛文麿首相は、こうした議論に積極的に関わっていない。 最終的には、ルーズベルト大統領との会談で決着をつけようと考えていたからだ。

御前会議前日の5日、近衛首相は、天皇に「帝国国策遂行要綱」草案を説明した。 天皇は、3項目の順序がおかしい、「これでは第一が戦争で、第二が外交ではないか」と質した。 近衛は「いえこれは軽重を指しているのではなく、単に項目を並べたのです」と弁解している。

天皇は納得せず、杉山元参謀総長と永野修身軍令部総長を呼び、戦争を主にして、外交を従にしているではないかと強い口調で確かめている。 二人はこもごも、そうではないと答えた。 しかしそれは連絡会議などの発言と異なっている。 彼らが天皇の疑問に答える発言と、政治、軍事の国策決定会議の時の発言は全く異なっていた。 むろんこれは二人だけでなく、東條英機陸軍大臣や後の嶋田繁太郎海軍大臣にも共通している。 その点では軍事指導者は二枚舌を使っていたといっていい、と保阪正康さんは書いている。

この時も天皇は二人に対して、「要するに統帥部も外交に重点を置くと理解していいのだな」と詰め寄り、二人は「その通りです」と答えた。 アメリカとの外交交渉を第一に考えていて、戦争は第二だなと、この場で確認されたのである。 二人はその約束を守ったかが改めて問われることになった。

 そして9月6日の御前会議である。 天皇を含めて16人が出席した。 結果的にこの会議は第3項に沿って国策が進むようになるのだが、杉山、永野らの統帥部は、天皇の意に沿うように外交の行く末を見守るという言を付け加えた。 天皇は最後に発言を求め、祖父である明治天皇の御製を出席者の前で声にして二度諳(そら)んじた。

 <四方の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ>

 これは異様なことだった。 普通、天皇は御前会議で口を開くことはまったくなかったからだ。 天皇は戦争には反対していたのである。