大本営政府連絡会議と東條英機の本心2021/05/01 06:56

 東條内閣はまず国策の再検討会議に入った。 いま対米交渉で懸案になっている課題を11項目に整理して、大本営政府連絡会議で論じることにした。 会議は10月24日から11月1日まで計7回、ほぼ連日続けられた。 近衛内閣の時と違って外相が東郷茂徳、蔵相に賀屋興宣、海相には嶋田繁太郎が新しく加わったが、これまでの経緯を知らないので、初めに納得できる説明を求めた。

 外交に力を入れるなら、第10項の対米交渉は短期間にまとめられるかという点と、どの程度の譲歩をすれば妥協の見込みがあるかを初日に論じるべきなのに、それは10月30日と後回しにされた。 まず対米英蘭戦争を行うのにはどういう時期がいいか、その場合、ソ連は攻めてくるのかが論じられた。 戦争を第一として外交を第二とする方向の論議で、国策再検討会議がトリックと言われる所以である。

 東條は結論としての三案を示した。 (1)戦争を避けての臥薪嘗胆、(2)直ちに戦争を決意、戦争により解決、(3)戦争決意のもとに戦争準備と外交を並行。 天皇の意に沿うように項目を並べてはいるが、東條の本心が(2)であることは、国策再検討会議の流れの中でより鮮明になっていた。

天皇の前で東條首相が泣いたわけ2021/05/02 07:36

 大本営政府連絡会議は1日置いて11月1日に最終的な会議を開き、結論を出すことになった。 この「空白の一日」に、東郷茂徳外相は、今進めている交渉の日本側の条件(三国同盟は離脱しない、中国から撤兵しない、南部仏印にも駐留する)を「甲案」として、幾分かの譲歩をすべきだと、新たに「乙案」(太平洋海域では日米は武力衝突を避ける、蘭領印度支那での物資の獲得を互いに保証する、米国は年間一定量の航空機用の揮発油の供給をする。備考として、南部仏印から北部仏印まで日本軍は撤退する、中国市場に対する米国の進出を認める)をまとめていた。 「乙案」は実は外務省長老の幣原喜重郎、吉田茂らが密かにまとめたもので、東郷外相もこの条件なら、外交交渉がまとまるかもしれないとしていた。

 11月1日午前9時から始まった会議は、途中休憩を挟んで、翌2日午前1時まで16時間の激論が続いた。 東郷外相の「乙案」説明が終ると、杉山元参謀総長、塚田攻参謀次長が、「仏印からの撤兵など国防的見地から国を誤る策」だと猛然と反対した。 東條は休憩を宣言し、別室に杉山と塚田を呼び、「支那事変に触れていない乙案では、外交は成立しないと思われる。今、南部仏印からの撤退を拒否すれば、外相は辞職し、内閣は総辞職だ。すると次期内閣は非戦の内閣になるだろう。開戦までの時日は遅れてしまう」と言った。 東條ははからずも本心を表している。 二人は「不精不精」同意した。

 会議が再開されると、塚田は「日米両国は通商関係を資産凍結前に戻す」と条文を変更し南部仏印は曖昧にした上で、さらにアメリカは「日支両国の和平の努力に支障を与えない」と明記せよと迫った。 これで東郷の「乙案」はまったく骨抜きになった。 杉山と塚田は、東條の主張は自分たちの側に立っているとの自信から、乙案を形骸化することにしたのだ。 東郷は「これでは日本に利益があるだけで米国は受け入れない」と怒ったが、16時間になっていた会議は終結した。

 この日(11月2日)の夕方、東條、杉山、永野の三人は、天皇に会議の結論を伝えた。 この報告中に、東條は戦争に傾いている案だと自覚し、そして泣き出した。 天皇の避戦の感情に叛(そむ)いていると知ったからだ。 天皇はそういう東條を見つめていた。

 大本営政府連絡会議の決定を追認する御前会議は、11月5日に開かれた。 天皇は慣例により一言も発しない。 天皇の意思は枢密院議長の原嘉道が代弁しているとされた。 原の質問に、東條は中国からの撤兵などとんでもないと説明し、原が外交交渉での平和的解決に、なぜ駐兵を論じる項目がないのかと質すと、それは撤兵に関わるからだと、矛盾した答を返している。 時間を費やしたが、御前会議は大本営政府連絡会議の結論を承認する形になった。 とにかく「対米英蘭戦争ヲ決意」が前提になることが確認されたのだ。 12月初旬に備えて陸海軍とも公然と戦争準備に入ることが決まった。

二・二六事件、海軍の最高機密文書発見2021/05/03 06:57

昭和天皇は、「二・二六事件(昭和11(1936)年)と終戦の時との二回丈けは積極的に自分の考を実行させた。」(『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』(文藝春秋・1991年))と語っていた。 昨年2月放送されたNHKスペシャル「全貌二・二六事件~最高機密文書で迫る~」完全版を、3月5日BS1の再放送で見た。

終戦時、海軍の軍令部第一部長だった富岡定俊少将が、赤い表紙の海軍最高機密文書を密かに保管していたのが発見された。 海軍のすべての作戦を統括する軍令部が、事件の最中に記録した文書6冊だ。 今までは、事件後まとめられた陸軍軍法会議の資料が主な公文書とされてきた。 実は、海軍は事件の前から決起の情報をつかんでいて、ずっと情報収集を続けていたことが、最後に明らかになる。

2月26日午前7時、海軍軍令部に電話がかかってきた。 軍令部員がメモした第一報は「警視庁 占領」「内大臣官邸 死」「総理官邸 死」だった。 夜明け前、陸軍の青年将校が、部隊およそ1500人を率いて決起、重要閣僚を次々と襲い、クーデターを企てた。 岡田啓介首相は、間違って義理の弟が殺害された。 天皇の側近、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣らは、銃や刀で殺された。 決起部隊を率いたのは、陸軍の中の派閥「皇道派」を支持していた20代、30代の青年将校たちで、昭和恐慌後の農村の疲弊、貧富の格差、政治不信などを理由に、国家改造の必要性を主張し、天皇を中心とした軍事政権の樹立を目論んでいた。

しかし、昭和天皇は、勝手に軍隊を動かし、側近の重臣たちを殺害した決起部隊に、厳しい姿勢で臨もうとしていた。

赤坂と六本木に駐屯していた陸軍の部隊の一部が、国会議事堂や首相官邸など、国の中枢を占拠した。 これに対し陸軍上層部は、軍人会館(後の九段会館)に急遽設置された戒厳司令部で情報を集めていた。

今回の機密文書で、海軍が独自の情報網を築き、一般市民に扮した私服姿の要員を現場に送り込み、戒厳司令部にも要員を派遣、陸軍上層部に集まる情報を入手するなど、膨大な情報を収集していたことが判った。 決起部隊の動きを監視し、分単位で記録、報告していた。

決起部隊と川島陸相、天皇と海軍、二つの密約2021/05/04 07:13

事件初日、決起部隊と川島義之陸軍大臣の間で、密約が交わされていた。 決起部隊に「軟弱だ」と詰問された川島陸相は、「決起の主旨に賛同し昭和維新の断行」を約束していたのだ。 直後、川島陸相は、決起部隊が軍事政権のトップに担ごうとしていた皇道派の幹部、真崎甚三郎大将に接触、「謀議の結果、決起部隊の要求をいれ、軍政府樹立を決意」した、と機密文書は記している。

昭和天皇は事件発生当初から断固鎮圧を貫いたとされてきた。 しかし機密文書には「上」(かみ)と記された大元帥、昭和天皇が事件に直面し、揺れ動く発言が記されていた。 天皇は事件発生直後、海軍軍令部総長である伏見宮に宮中で会っていた。 伏見宮は、天皇より26歳年長、長年海軍の中枢にいて、影響力のある皇族だ。 天皇は、海軍の青年士官の合流はないかと尋ね、伏見宮は、その心配はないと答えた。 天皇は当時34歳、軍部の中には、麻雀やゴルフをして、大元帥の務めを果たしていないとの批判的な声もあり、陸軍少佐の秩父宮や海軍少佐の高松宮を代わりに天皇に担ごうという情報まであった。 天皇は伏見宮に、陸戦隊(海軍の陸上戦闘部隊)の指揮官には部下を十分握り得る人物を選任せよ、と注文を付けた。

天皇、海軍に鎮圧準備の「大海令」2021/05/05 07:11

 決起部隊の目的を支持すると約束した陸軍上層部。 天皇に「決起部隊に加わらない」と約束した海軍。 事件の裏で相反する密約が交わされる中、天皇は鎮圧に一歩踏み出していく。 海軍に鎮圧を準備するよう命じる三本の「大海令」を立て続けに発令した。 大分の沖合で演習していた第一艦隊全体が、直ちに東京を目指した。 鹿児島沖で訓練していた第二艦隊も、決起部隊の動きが全国に広がることを警戒し、大阪に急行した。 これまで陸軍の事件として語られてきた二・二六事件、実は、海軍が全面的に関わる内戦、東京での市街戦まで想定されていたのである。

 海軍は、東京を拠点とする陸軍の第一師団の動きを探り、その参謀長の決起支持の言葉を記録していた。 第一師団が決起部隊に合流したらどうなるのか、海軍は、陸軍と全面対決になることを警戒していた。

 2月27日午後2時、海軍軍令部に決起部隊から電話があり、「ものの分かる海軍将校一人」が決起部隊の拠点に来ることを求めた。 派遣されたのは、軍令部中堅幹部の岡田為次中佐、「君たちは初志の大部分を貫徹したるをもって、この辺にて打ち切られては如何」と、言った。 決起の趣旨を否定せず、相手の出方を見極めようとした。 このときすでに天皇の命令を受け、鎮圧の準備を進めていた海軍、その事実を伏せたまま、この後も決起部隊から情報を集めていく。 天皇の鎮圧方針に従う裏で、海軍は、決起部隊ともつながっていた。

 天皇は、事態の収束が進まないことにいらだち、陸軍上層部に鎮圧を急ぐよう求めていた。 午後9時、戒厳司令部に派遣されていた海軍軍令部員から重要な情報が飛び込んできた。 真崎甚三郎大将が、満州事変を首謀した石原莞爾大佐と会い、極秘工作に乗り出したという。 青年将校らの親友を、決起部隊に送り込み説得させよう、万一従わなければ、容赦なく切り捨てるというのだ。