清水勲さんの「福沢諭吉と漫画」2021/05/11 06:55

 4月24日の朝日新聞「惜別」で、漫画史・風刺画研究家の清水勲さんが3月2日に亡くなったことを知った。 清水勲さんというお名前は、福沢諭吉が『時事新報』で今泉秀太郎(一瓢)や北沢楽天に漫画を描かせた先駆者だと紹介していることで知っていた。 本棚には、編著『明治漫画館』(講談社・1979(昭和54)年)という大型本や、岩波文庫の編著『ビゴー日本素描集』(1986(昭和61)年)、『ワーグマン日本素描集』(1987(昭和62)年)、『続ビゴー日本素描集』(1992(平成4)年)があった。

 『明治漫画館』巻末に、「明治漫画を育てた人々」という解説があり、野村丈夫と漫画、福沢諭吉と漫画、幸徳秋水と漫画、宮武外骨と漫画、が紹介されている。 野村丈夫は、明治の代表的時局風刺雑誌『団々珍聞(まるまるちんぶん)』を明治10年3月に週刊で創刊した。 野村丈夫は、福沢と同じ緒方洪庵の適々斎塾に安政2(1855)年、福沢より半年早く(馬場註:福沢は安政2年3月9日)入門し、一緒に学んだという。

 「福沢諭吉と漫画」を以下に引く。

 啓蒙思想家である福沢諭吉は、文明開化思想の普及宣伝に、漫画がその機能からいって最も有効性を持っているものであることを理解していた。 のちに福沢が北沢楽天に語った「画をもって世の中を動かすのは漫画の他にない」という言葉は、そのことを端的に表現している。 明治15年に福沢が創刊した『時事新報』は、福沢の漫画の利用の仕方をよく我々に伝えてくれている。

 この新聞に最初に名をとどめている漫画家は今泉一瓢である。 彼は福沢の姉の長男にあたる。 一瓢は明治17年に「北京夢枕」という錦絵漫画を描いているが、これは福沢が立案したもので〝列強に侵略されながら、いまだ大国意識を捨てない中国を風刺した〟漫画である。 福沢の漫画立案センスの良さ、時局に対する鋭い風刺の眼を感じさせる。 今泉一瓢は明治17年に慶應義塾を卒業、翌年渡米しサンフランシスコで貿易と絵を勉強して明治22年に帰国した。 福沢はすぐに彼を『時事新報』に入社させて挿絵や漫画を描かせた。 一瓢は明治28年11月に『一瓢漫画集』を刊行している。

 一瓢は病弱で、漫画家としての能力もそれほどなかったので、福沢は、横浜居留地で発行されている週刊誌『ボックス・オブ・キューリオス』で漫画を描いている北沢楽天を、月給50円という高給で明治32年に時事新報に迎える。 こうして楽天は入社の年から時局漫画を描き出す。 楽天が一生を漫画に賭けるきっかけをつくったのは、この福沢との出会いにおいて、前述の言葉を聞いたことによるのである。 楽天の才能を発掘し、その活躍の場を与えた福沢は、こうして明治の代表的漫画家・職業漫画家の第一号・漫画家の大スターの生みの親となったのである。

 福沢の死んだ翌年(明治35年)に『時事新報』は日曜付録として「時事漫画」をつけ、楽天が世間の脚光を浴びる時代を迎える。(飯沢匡氏の指摘するところでは、この〝時事漫画〟という言葉は、福沢が使用していた社説ともいうべき〝時事漫言〟に由来するという。) この「時事漫画」は途中、中断をくりかえしたが、大正を経て昭和初年まで続き、楽天は昭和7年までの30年以上にわたって時事新報に関係した。

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