永六輔と宮本常一、東京やなぎ句会人脈2021/06/07 07:00

 『知恵泉』の永六輔を見て、いくつか知らなくて、納得することがあった。 一つは、永六輔が早稲田大学在学中から民俗学者宮本常一の影響を受けていたことだ。 1966年(昭和41)年3月に『夢であいましょう』が終った後、ラジオ番組に転身することにした永に、「一つ守って欲しいことがある。電波の届く先に行って、そこで何が起きているかをよく見て、そこで話をして納得してもらったことを、スタジオに帰って話しなさい。スタジオでものを考えてスタジオでしゃべるな。」と言ったそうだ。 長女の千絵さんは、永がテレビよりラジオが好きだったのは、名もなき普通の人、等身大の素顔のままの自分でいたいという思いがあったからだ、と話していた。

 永六輔の「旅」の原点には、日本全国を旅して歩き、民俗研究に、生きた人間の生活と社会経済史的な構造という視座を導入、離島振興・農業改善の実践にも貢献した宮本常一がいたのだ。 宮本に導かれて、日本の伝統芸能や祭りを尋ね歩いた永六輔は、佐渡で鬼太鼓(おんでこ)に出合い、鬼太鼓座の活動を電波に乗せ、南房総の「鯨唄」、沖縄の「三線(さんしん)」の普及にも関わる。 「弱き者の味方」になって「声なき声を代弁」し、伝統芸能を継ごうとする若者の未来を応援する。 矢崎泰久さんは、永六輔には「ためにちゃん」というあだ名があり、誰かのためになるのが好きだったと語った。 晩年、パーキンソン病を患う中でも、東日本大震災の被災地を回り、みんな「本当は笑いたいのだ」と話し、小さな弱い者からの発信を助けようとした。

 大事なのは「何を伝えるか」だと考え、日本人とは何か、どういう心を持っているのかを探り、古典芸能を尋ねて、そのルーツを上方に求めたりした永六輔の活動を、『知恵泉』で振り返っているのを見ていて、改めて東京やなぎ句会の人脈が大きく影響していたのを感じた。 入船亭扇橋を宗匠に、江國滋、神吉拓郎、三田純市、大西信行、小沢昭一、桂米朝、加藤武、永井啓夫、柳家小三治、矢野誠一。 何か訊きたいことがあったら、ずばり答えてくれそうな面々ばかりではないか。

 小沢昭一さんが、『友あり駄句あり三十年』(日本経済新聞社)に、永六輔(俳号・六丁目)について、「彼は大変な物識りですが、それでもなお“聞くはいっときの恥……”で、虚心にものを人に問うという、この攻撃的な素直さがこの人の真骨頂。そうしているうちに、何事も既成概念にとらわれず、彼独特の目で物をとらえてしまうのです。」「以前、永さんは「尺貫法の併用」とか「天皇に着物を」とかで“戦った”ことがありましたが、あれも元はと言えば、この人の子供のような素朴な好奇心のハテナから出発したことのようです。」と書き、好きな俳句を挙げている。

   夢の下を風が流れて籠枕   六丁目