その前年まで福沢諭吉はどうしていたか2021/06/13 07:08

 お話変わって、平岡円四郎が暗殺された元治元(1864)年6月頃、福沢諭吉はどうしていたか。 少し前から見てみることにしよう。

 万延元(1860)年に25歳で咸臨丸でアメリカに行き、5月帰国、上陸の際、井伊直弼大老の桜田門外暗殺を言い当てて、出迎えの木村摂津守喜毅家の用人を驚かせる。 帰朝後、幕府の翻訳方に雇われた。 翌文久元(1861)年、鉄砲洲から新銭座に転居し、中津藩江戸定府土岐太郎八の次女錦(17歳)と結婚した。 同年12月幕府の遣欧使節に従い、御雇翻訳方として参加、フランス、イギリス、オランダ、ドイツ、ロシア、スペイン、ポルトガルを歴訪し、先進文明諸国の実情に接してその文物制度を調査の上、文久2(1862)年12月に帰朝した。 渋沢栄一より、だいぶ早かったわけだ。

 文久3(1862)年、この頃からもっぱら英文の読法を研究し、ようやくこれを塾生に教授し始める。 5月、生麦事件をめぐって江戸市中は物情騒然となり、万一開戦の際には避難所として青山隠田(原宿)の呉黄石(芸州の医者で箕作秋坪の親戚)の家に赴くことに準備を整える。 6月10日に亡くなった恩師緒方洪庵の葬式に列し、江戸に来てから初めて上野山内を見た。 通夜で長州(6月1日から四国連合艦隊下関砲撃事件)から帰ったという村田蔵六(後の大村益次郎)に「ドウダエ馬関では大変なことをやったじゃないか。何をするのか気違い共が、あきれ返った話じゃないか」と言うと、村田が眼に角(かど)を立て「何だと、やったら如何(どう)だ」「如何だって、この世の中に攘夷なんて丸で気違いの沙汰じゃないか」「気違いとは何だ、けしからんことを言うな。長州ではチャント国是がきまってある。あんな奴原に我儘をされて堪(たま)るものか。殊にオランダの奴が何だ、小さい癖に横風な面(つら)している。これを打ち攘(はら)うのは当然(アタリマエ)だ。モウ防長の土民は悉(ことごと)く死に尽くしても許しはせぬ、どこまでもやるのだ」という剣幕は以前の村田ではない。 実に驚いた。 村田が長州に行く前には、あの攘夷の真っ盛りに村田が呼び込まれてはその身が危ないと、朋友みなで心配していたのだ。 それが本人の村田の話を聞いてみれば、今の次第、実に訳がわからない。 長州に行っていかにも怖いので、攘夷の仮面を冠ってわざと力んでいるのか、本心からあんな馬鹿を言う気遣いはあるまい、ともかく一切、あの男の相手になるな、下手なことは言うな、と箕作秋坪と二人で言い合わせた。

 秋、新銭座から鉄砲洲の中津藩中屋敷内に転居、10月12日鉄砲洲で長男一太郎が生れた。 この頃は攘夷論の最盛期で、身辺の危険を感じ、夜間はほとんど外出しなかった。 神奈川奉行組頭の脇屋卯三郎が長州の親類に出した手紙に、誠に穏やかならぬ御時世柄で心配のことだ、どうか明君賢相が出て来て何とか始末しなければならぬ云々、と書いたのを、幕府の役人に見られて、切腹させられたので、この年、手控えしていた外交機密文書を焼いた。