蔦屋重三郎と、その時代2021/06/22 07:03

 蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)、『広辞苑』には、こうある。 「蔦屋の主人。本名喜多川柯理。号、耕書堂など。蜀山人(大田南畝)・山東京伝ら江戸の狂歌師・戯作者と親しく、喜多川歌麿・十返舎一九・曲亭馬琴らも一時その家に寄寓。通称、蔦重(つたじゅう)または蔦十。自らも狂歌・戯文を作り、狂名は蔦唐丸(つたのからまる)。(1750~1797)」

 山川『日本史小辞典』で付け加えると、「江戸中・後期の江戸の書肆。本姓丸山、喜多川氏をつぐ。江戸生れ。吉原五十間道東側に住み、吉原細見の版元だったが、のち通油町南側中程へ転居した。浮世絵や江戸小説の出版が時好にかない、江戸で、一、二を争う地本(じほん)(江戸版の書物)問屋となった。戯作者や浮世絵師の庇護者で、東洲斎写楽の浮世絵もすべてこの版元から出ている。1791年(寛政3)幕府の風俗取締りにより家財半減の処分をうけた。」

 18世紀後半、安永・天明・寛政期の江戸には、浮世絵の喜多川歌麿(1753?~1806)・東洲斎写楽、戯作の山東京伝(1761~1816)、狂歌の大田南畝(1749~1823)といった江戸文化を彩る花形スターが登場する。 このスターたちの作品を巧みに売り出し、江戸文化の最先端を演出・創造したのが、版元の「蔦重」こと蔦屋重三郎(1750~1797)だった。 江戸吉原の人気ガイドブック『吉原細見』の独占出版、狂歌と浮世絵を合体させた豪華な狂歌絵本の刊行、当時の情勢を風刺した京伝らの戯作の出版、歌麿の才能を存分に開花させた美人大首絵の発明、謎の絵師・写楽の〝発見〟など、次々と流行の最前線を作り出し、リードした人物である。

 「蔦重」は『吉原細見』や「往来物」など、確実に部数を稼ぐ出版物を手がけて経営の安定を図る一方、南畝や朋誠堂喜三二(1735~1813)、恋川春町(1744~1789)など、売れっ子の狂歌師や戯作者の人気に乗じて、自分の店の「ブランド化」をもくろみ、版元としての地位を確固たるものにしていく。 さらに、新人発掘に力を注ぐ名伯楽でもあり、歌麿や写楽を始め、葛飾北斎(1760~1849)や十返舎一九(1765~1831)、曲亭馬琴(1767~1848)など、無名時代に「蔦重」に才能を見出された逸材は少なくない。