『歴史探偵』徳川慶喜・鳥羽伏見の戦いの謎2021/07/07 06:59

『歴史探偵』「謎の将軍 徳川慶喜」(2)鳥羽伏見の戦いの謎。 『昔夢会筆記』には、「いかようにも、勝手にせよ」と申したのは「一期(一生)の失策」とある。

大政奉還から2か月後の12月、大事件が起こる。 薩摩藩が天皇のいる御所を封鎖、慶喜を排除した新政府を樹立した。 京にいた慶喜は、薩摩と戦うのではなく、大坂城に退く決断をする。 宮本裕次大阪城天守閣研究副主幹は、慶喜は本丸御殿で指揮に当っていたが、幕府艦隊は大坂湾を封鎖して薩摩の兵站を抑えられるし、大坂城は巨大な石垣と幅の広い堀で鉄壁の守りで、攻められるのを待っていれば十分戦え、状況をひっくり返すことが出来た、と言う。 徳川幕府軍と薩摩軍の勢力はどうか。 徳川軍は1万5千、新式のシャスポー銃も持っていた。 それに対し、薩摩軍は4千だった。

誤算の第一は、江戸で薩摩が放火など攪乱行為をしたこと。 江戸の人は怒って、薩摩藩邸を焼き打ちした。 その情報に徳川家大目付滝川具挙(ともたか)は、兵を挙げることを慶喜に求め、戦さを拒めば、激高した兵に慶喜が殺されると伝えた。 慶喜は「いかようにも、勝手にせよ」と、戦いを認めた。 1868(慶応4)年1月2日、徳川軍は大坂城を出て、進軍を開始する。

誤算の第二。 《戊辰戦記絵巻》の彩色プロジェクトが進み、詳細に描かれた戦いの様子を見ると、徳川軍はまるで緊張感がない。 銃に玉を込めていなかったという証言もある。 油断と兵力を温存する慢心もあった。

第三、最大の誤算。 薩摩軍が「錦の御旗」を掲げたこと(仁和寺に保存されている現物を映した)で、「朝敵」になるというので幕府軍に寝返りが続出した。 幕末史の家近良樹大阪大学名誉教授は、これは慶喜が一番突きつけられたくなかったことで、大坂城を脱出、江戸へ戻る、徳川の大敗となった。

この(2)を解説していた河合敦多摩大学客員教授(日本史)は、徳川慶喜を「孤高の人」「独断専行」とした。