渋沢栄一、パリ万博へ2021/07/09 07:17

 ちょいと、東洲斎写楽はお休み。 7月4日放送の『青天を衝け』第21回「篤太夫、遠き国へ」。 水戸侍を見張るのには渋沢がいいという慶喜の思い付きで、その側近、原市之進(尾上寛之)に呼び出された篤太夫は、慶喜の弟、民部公子昭武(板垣李光人)に随行してパリへ行くことを打診される。 原市之進の懸念をよそに、篤太夫はたまげたことだがと快諾、平岡円四郎様もそうだったが、今度は殿が、たまげた道を開いて下さった、僥倖だ、一条の光が射した、おかしろくも胸がグルグルする、と喜ぶ。

 孝明天皇(尾上右近)の強い希望もあり、慶喜は15代将軍の座につく。 しかし、天皇は内侍所(賢所)の御神楽(みかぐら)、雪降る寒い中、四時間の祭祀で、体調を崩し、病に伏せる。 睦仁親王(後の明治天皇。犬飼直紀)は、枕元に寄るなという天皇に、種痘を受けたから大丈夫と応える(倒幕派による毒殺説もあるが、ドラマはワクチン推奨の疱瘡説だった)。

 篤太夫は、大目付永井尚志(中村靖日)から会計掛を命じられ「仏行御入用帳」を渡され、跡継ぎがないなら「見立て養子」を立てるように言われる(後で尾高平九郎を立てる)。 将軍になり第三代(三世)ナポレオン皇帝に贈られたという軍服洋装の慶喜は、篤太夫を昭武と引き合わせ、昭武に五つの指令を与える。 (1)欧州五か国を親善訪問する、(2)フランスで3~5年以上学問をする、(3)その師を敬え、(4)日の本に常ならぬ事態が起こっても、みだりに動くな、(5)欧行の一行、一和円満に。

 慶喜は人払いして、篤太夫に言う。 どうする渋沢、将軍になってしまった、内外多難、私の力ではとても及ばない、将軍を出せる家柄の若い昭武に学問をさせて、将軍を継がせたい。 問題は、昭武が一人前になって戻るまで、公儀を潰さずにいられるかどうかだ。 「人の一生は重荷を負い遠き道をゆくが如し いそぐべからず不自由を常と思へば不足なし」…「勝事(かつこと)ばかり知りて負くることを知らざれば、害その身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり。」 慶喜と唱和した篤太夫、「人の一生とは何と摩訶不思議なことでございましょう。上様と大権現様のご遺訓を唱えることができるなんて」と。

 1月11日、パリへ横浜からアルフェー号で出発する前、篤太夫は神奈川奉行所で、パリ万博使節団で共に行く外国奉行向山一履(岡森諦)、医師高松凌雲、外国方杉浦愛蔵(志尊淳)、組頭田辺太一(この二人は二度目のフランス)に会う。 杉浦には、外国方の福地源一郎(犬飼貴丈)、福沢諭吉(中村萬太郎)も紹介され、福地はフランスで近づいて来るモンブランには気を付けろ、薩摩に通じているからと、注意する。 この福沢さん、背が低く、おだやかな感じだった。

一行は勘定奉行小栗忠順(武田真治)、外国奉行栗本鋤雲(池内万作)から、博覧会の事務はレセップ、財務・交渉はフリュリエラールが担当する、使節団のもう一つの目的は600万ドルの借款だと言われる。 小栗は篤太夫に、6年前にメリケンで蒸気機関で動く造船所を見て来た、このネジも機械で作っていた、600万ドル(450万両)の借款で造船所をつくる、公儀は三年先、いや一年先もわからぬが、造船所は日本の役に立つ、後々、徳川のおかげで助かったと言われるかもしれぬ、共に励もうぞ、と言う。