『九十歳のラブレター』<等々力短信 第1145号 2021(令和3).7.25.>2021/07/12 07:04

 加藤秀俊さんからの年賀状は、毎年立春の頃に、旅行中の感想などを頂くのが常だった。 昨2020年は、一読、衝撃を受けた。 「六十五年間にわたって苦楽をともにしてきた妻、加藤隆江を失いました。昨年九月十六日のことでした。その前日もふだんとかわらず夕食をともにし、ワインをかたむけ、それぞれの寝室で就寝したのですが、翌朝、様子をみにいくとすでにこと切れておりました。享年八十九歳。虚血性心不全による突然死でした。」「せめてものなぐさめは病院で苦しむことなく、自宅の自室で静かに眠りについたことでした。うらやましい逝きかたでした。」 私は、どうお慰めしてよいかまったく見当がつかず、ご子息文俊さんがSFC環境情報学部大学院政策・メディア研究科委員長に就任なさったことはご存知だったのだろうか、などと返信した。

 加藤秀俊さんが、その奥様との80年に及ぶ日々をつづった、『九十歳のラブレター』(新潮社)を上梓なさった。 手ごろな四六判、腕を組んだ二人の、北欧で買ってずっと食堂の壁にかけてあるという陶板の装幀も素敵だ。 青山の青南小学校に一緒に入学して以来、戦争を経てのめぐりあい、秀俊さんがストーカーの恋愛時代、京都大学からハーバード大学のセミナーに参加し、ヘンリー・キッシンジャー助教授の手配で残ったボストンへ、隆江さんが単身横浜から船に乗って行き結婚、新婚生活が始まる。

 1963年の『整理学』(中公新書)に始まり、『アメリカの小さな町から』『イギリスの小さな町から』『生きがいの周辺』『正・続 暮しの思想』『生活考』『ホノルルの街かどから』など、私はやさしくわかりやすい文章の、加藤秀俊さんの本を愛読して、多大の影響を受けた。 それは1975年に個人通信「広尾短信」を始める一つのきっかけになり、KJ法を使って若書きの「加藤秀俊その世界」をまとめ、ファンレターにお送りした。 こんなふうに、まとめていた。 気取らない、かっこうをつけることをやめて、実体に即して考えよう。 ニヒリズム、なんでも企業化、情報操作、管理社会の危険。 虚無・絶望を承知した上でのりこえる。 みんなの力でやる、人間の開発の可能性を信じる。 人生を楽しむ、人間的な生活を楽しむ、生きている人間自身の尊重。

 『九十歳のラブレター』で、加藤秀俊さんの学究生活を、隆江さんが献身的に、明るく支えていたことを、いろいろと知った。 若い女性がひとり船で渡米したのもすごいが、京都での最初のマイホームは、板橋の中学で英語を教えていた時の退職金と銀行と交渉して建てた。 アイオワ州立大学へも、「好きなようにしたらいいじゃない、いっしょに行くわよ、こどもたちがたいへんだけど、どうにかなるでしょ」と。

 80歳になった私は、夫婦であと十年の生き方を、この本に教えられた。

敗軍の将軍、臣と語らず2021/07/12 07:06

 書棚にあった司馬遼太郎の『最後の将軍―徳川慶喜―』(文藝春秋)を見ていたら、維新後の慶喜のことがいろいろ書かれていた。 史料をたくさん集めて書いたことが有名だから、それぞれどこかに根拠のある話だろうと思う。

 人と会わなかった件。 旧臣にも会わなかった。 京都時代、原市之進が暗殺された後、永井尚志は幕府の表役人(大目付)ながらも謀臣の位置について、秘書のように寵用され、大政奉還から慶喜帰東後の大坂城明け渡しまでをことごとく担当した。 明治10年ごろ、その永井尚志を、渋沢栄一が連れてやってきた。 慶喜は、渋沢のみに会い、永井には会わなかった。 この場合は渋沢が無官の実業家であるのに対し、永井は新政府につかえ元老院権大書記官にまでなっているため、政府筋に無用の誤解をあたえることを避けたのであろう、と司馬さんは書いて、(懐かしくないのだろうか)と、永井はこのときおもった、と付け加えている。 いま往事を語れば慶喜にとってもっとも懐かしい話し相手は、板倉伊賀守勝静か、永井玄蕃頭尚志であるであろう。 が、慶喜は語ることをおそれた。

 語れば当然、憾(うら)みが語気としてまじるであろう。 その憾(うら)みが、まるで怨嗟(えんさ)でもあるかのように世間につたわることを慶喜はおそれた。 これがため、一橋家以来の家臣である渋沢栄一と、明治政府との関連において保証人のようなかたちになっている伯爵勝海舟の両人以外の、過去のたれにもあわなかった。

 春嶽にも会わなかった。 春嶽は維新後新政府の最高官のひとりになり、京都から東京へ出たが、途中当然静岡を通っている。 春嶽自身も時勢に遠慮し、慶喜をおとずれなかった。

 慶喜はできるかぎり世間と没交渉のまま世をおくりつづけようとしていた。 永井尚志によれば、慶喜の気持がよくわかっていても、なお慶喜のその人を懐かしがらぬ心情だけは理解できない。 永井は、ふと静岡の旧幕臣のあいだで慶喜の評判があまりよくないというはなしをおもいだした。 これより以前、新政府は田安家の亀之助に徳川家の家督をつがせ、駿府(静岡市)で七十万石をあたえ、江戸から移した。 旧幕臣五千人が無禄を覚悟で静岡に移ったが、家がなく町家や農家に分宿し、そのくらしは窮乏をきわめた。 そのさなか、諸事新奇なものが好きな慶喜が自転車などを乗りまわしてときどき町にあらわれるのをみて、旧幕臣たちはひそかに怨み、「貴人、情(じょう)を知らず」といった。 貴族の出身というのは、やはりどこか人情の欠落したところがある。 というのであろう。

 永井尚志は、はるばる静岡まできて面会をことわられた時も、慶喜の感情生活がやはり尋常の育ちの者とはちがっているようにおもわれた。 慶喜は、静岡に三十年蟄居している。