敗軍の将軍、臣と語らず2021/07/12 07:06

 書棚にあった司馬遼太郎の『最後の将軍―徳川慶喜―』(文藝春秋)を見ていたら、維新後の慶喜のことがいろいろ書かれていた。 史料をたくさん集めて書いたことが有名だから、それぞれどこかに根拠のある話だろうと思う。

 人と会わなかった件。 旧臣にも会わなかった。 京都時代、原市之進が暗殺された後、永井尚志は幕府の表役人(大目付)ながらも謀臣の位置について、秘書のように寵用され、大政奉還から慶喜帰東後の大坂城明け渡しまでをことごとく担当した。 明治10年ごろ、その永井尚志を、渋沢栄一が連れてやってきた。 慶喜は、渋沢のみに会い、永井には会わなかった。 この場合は渋沢が無官の実業家であるのに対し、永井は新政府につかえ元老院権大書記官にまでなっているため、政府筋に無用の誤解をあたえることを避けたのであろう、と司馬さんは書いて、(懐かしくないのだろうか)と、永井はこのときおもった、と付け加えている。 いま往事を語れば慶喜にとってもっとも懐かしい話し相手は、板倉伊賀守勝静か、永井玄蕃頭尚志であるであろう。 が、慶喜は語ることをおそれた。

 語れば当然、憾(うら)みが語気としてまじるであろう。 その憾(うら)みが、まるで怨嗟(えんさ)でもあるかのように世間につたわることを慶喜はおそれた。 これがため、一橋家以来の家臣である渋沢栄一と、明治政府との関連において保証人のようなかたちになっている伯爵勝海舟の両人以外の、過去のたれにもあわなかった。

 春嶽にも会わなかった。 春嶽は維新後新政府の最高官のひとりになり、京都から東京へ出たが、途中当然静岡を通っている。 春嶽自身も時勢に遠慮し、慶喜をおとずれなかった。

 慶喜はできるかぎり世間と没交渉のまま世をおくりつづけようとしていた。 永井尚志によれば、慶喜の気持がよくわかっていても、なお慶喜のその人を懐かしがらぬ心情だけは理解できない。 永井は、ふと静岡の旧幕臣のあいだで慶喜の評判があまりよくないというはなしをおもいだした。 これより以前、新政府は田安家の亀之助に徳川家の家督をつがせ、駿府(静岡市)で七十万石をあたえ、江戸から移した。 旧幕臣五千人が無禄を覚悟で静岡に移ったが、家がなく町家や農家に分宿し、そのくらしは窮乏をきわめた。 そのさなか、諸事新奇なものが好きな慶喜が自転車などを乗りまわしてときどき町にあらわれるのをみて、旧幕臣たちはひそかに怨み、「貴人、情(じょう)を知らず」といった。 貴族の出身というのは、やはりどこか人情の欠落したところがある。 というのであろう。

 永井尚志は、はるばる静岡まできて面会をことわられた時も、慶喜の感情生活がやはり尋常の育ちの者とはちがっているようにおもわれた。 慶喜は、静岡に三十年蟄居している。

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