蔦屋重三郎の墓と八丁堀の石屋芳兵衛2021/07/14 07:04

 写楽が浮世絵界から姿を消した2年後の寛政9(1797)年5月7日、写楽を世に送り出した蔦屋重三郎は、48歳でこの世を去った。 死因は脚気衝心による心臓マヒだった。 蔦重は死の直前、枕元の妻に微笑みかけ、「拍子木がなるのに、なぜ幕は開かないのか?」と言って、事切れたという。 蔦重の店は日本橋通油町(現在の中央区日本橋大伝馬町)にあり、人形町通りに面した芝居町(堺町、葺屋町、木挽町)までは、ほんのひとっぱしりの距離だった。

蔦屋重三郎の墓は、浅草の日蓮宗正法寺(しょうぼうじ)にある。 墓碑文は、蔦重に狂歌の手ほどきをし、蔦重の手厚いバックアップで、天明時代の狂歌グループのリーダーから江戸文化人のトップにのし上がった、大田南畝(四方赤良)が書いた。 また狂歌師・石川雅望(宿屋飯盛)は、「知己の恩遇を恠(あやし)むのみ、大江戸通油町版元蔦屋重三郎を知らぬ者は無し」と撰文を綴った。

榎本雄斎氏は、徳島の古書店で明治34年刊、笹川博士の『遊侠伝』を見つけたところ、蔦屋重三郎のことが20数頁にわたって書かれていたという。 そこに「待乳沈で梢乗込む山谷堀を渡り、土手の道哲(西方寺)とも遠からぬ所に、正法寺となん呼べる毘沙門天を祀れる寺院ありける。書賈蔦屋重三郎の墓は即ち此にあり。其代々の墓碑は観美にして傍に碑碣を樹てたり。重三郎の墓なるものは寧ろ彼に非ずして此れなるべく今猶香華を絶たずして清らかなり其代々の墓なるものを見るに嘉永年間四代目蔦屋重三郎の名を刻すれば地本問屋として通油町に其肆を存したるも遠からざるべく、今猶八丁堀に石屋芳兵衛なる富豪ありて、月一回必ず此に賽すと聞けば、蔦屋なるもの餘栄ありと云ふべし。蔦屋と石屋の関係、書肆廃業の顛末及び蔦屋の巨細に関しては、往て八丁堀を訪へば事明瞭なるべけれど、好事は我が敢てする所にあらねば細しくは詮索せず。」とあった。 榎本雄斎氏は、笹川博士がこの時、八丁堀の松屋へ行き、蔦屋との関係を聞き書きしていれば、もっといろいろなことがわかったはずと、残念がっている。

榎本雄斎氏の写楽=蔦屋重三郎説は、『写楽―まぼろしの天才』(新人物往来社)を読めば、よくわかるかと思うが、まだ私はそこまで手を出していない。 戸島幹雄さんは、母上の美穂さんが榎本雄斎氏と手紙のやりとりをしていた時期には、会社の仕事が忙しくて、つっこんで話を聞くことはなかったのが、残念だという。