浅草すきやきの老舗「ちんや」の閉店2021/07/21 07:07

 浅草のすきやきの老舗「ちんや」が8月15日で閉店することになった、と13日、朝日新聞朝刊「東京版」に記事が出た。 終戦記念日にというのは、長い戦いに破れて、という意味なのだろうか。 『三田評論』7月号の裏表紙に「ちんや」の「百三十年の伝承、本物を現代に供す」という広告がある(新聞の見出しには「140年の歴史に幕」とある)。 8・9月号は、どこに代わるのか。

 「等々力短信」読者のお一人から、第1145号『九十歳のラブレター』が届いたその日に、奇しくも「ちんや」の歴史に幕の記事を目にして、「その昔(もう何年が経ったのでしょうか)「集い」を開いて下さった場所ではなかったか、と思いを深くしています」というお手紙を頂いた。 「ちんや」で開いてもらった「等々力短信700号、20年記念の会」は、1995(平成7)年3月25日の土曜日、冷たい雨の降る寒い日だった。

 学生時代の仲間が呼びかけ、企画してくれ、中学、高校時代の恩師を始め、先輩、友人たちから、短信が新聞記事になったことで知り合い初めてお会いする方々まで、たくさんの読者(にされている人々)が参加してくれた。 私のスピーチが長くなって、なかなか「すきやき」が始まらず、皆様をやきもきさせていたらしい。 「簡単ですが、ご挨拶」と言ったら、ドッと笑いが来た。 無事に「すきやき」が済んで、余興をお願いした三遊亭歌武蔵さんは当時まだ二ッ目、今や国立小劇場の「TBS落語研究会」のトリも取る大看板になっている(ここ一年以上、残念ながら無観客での収録がつづいているが…)。

 と、ここまで書いたら、京都の稲場紀久雄・日出子ご夫妻からお便りと涼菓などを頂戴して、私の「ちんや」でのスピーチが長くなった理由を思い出した。 稲場紀久雄さんは、スコットランドから来た明治日本の上下水道の先生W・K・バルトンの研究家で、夫人が私が『五の日の手紙3』(1994年)に書いた「『西洋事情』を読む」で『西洋事情』外編に影響を与えた『政治経済学』の著者がジョン・ヒル・バートンというのをお読みになったことで、ジョン・ヒル・バートンがW・K・バルトンの父親だという関係が判明した。 バートンとバルトンは、親子で日本の近代化に貢献していたのだった。 W・K・バルトンは、浅草十二階「凌雲閣」の設計者でもあった。 浅草「ちんや」の会だったから、そうした嬉しい大発見の経緯を縷々説明したために、ついついスピーチが長くなってしまったのだった。