台湾にバルトン銅像再建、半藤一利と小川一真2021/07/23 07:02

 浅草「ちんや」での私のスピーチが長くなったことを思い出した稲場紀久雄・日出子ご夫妻からお便りには、W・K・バルトン関連の情報もあった(「等々力短信」第1089号 2016(平成28).11.25.『バルトン先生、明治の日本を駆ける!』参照)。 W・K・バルトンは、日本統治下の台湾でも水道整備に奔走して「台湾水道の父」と呼ばれている。 その功績をたたえて、台北市政府が台北水道園区にW・K・バルトンの銅像を再建して、3月30日に除幕式が行われたというのだ。 毎日新聞4月8日付の記事のコピーを送って下さった。

 W・K・バルトンは明治29(1896)年、衛生局長だった後藤新平の要請を受け、教え子の浜野弥四郎と共に台湾に渡った。 当時の台湾は、衛生環境が不十分で、マラリアなどの風土病が流行していた。 バルトンは浜野と共に台北や基隆など各地の源流地を調査し、台湾の水道計画の基礎を築いた。 だが、明治32(1899)年、スコットランドへ帰国する直前、東京で倒れ、43歳で急逝した。 最初の銅像は、浜野らが建設資金を集め、大正8(1919)年3月30日、台北市の給水場(現在の水道園区)に建てられたが、戦争による金属類供出令により撤去されていた。 台湾では近年、日本統治時代の歴史に関心が高まる中、台北市政府がバルトンの功績を顕彰しようと、像の再建を決め、彫塑家の蒲浩明さんが制作したという。

 また稲場夫妻のお手紙には、1月25日の「等々力短信」1139号「半藤一利さんの戦争と平和」に関連して、半藤一利さんがラジオの対談で「私の祖母は、小川一真の娘で」と語ったのを聞いて、大喜びした話もあった。 W・K・バルトンは写真の分野でも、近代的写真術を日本に紹介し、作品も残している(バルトンが日本写真史に果たした役割<小人閑居日記 2006.5.19.>参照)。 小川一真は、写真術をバルトンに師事した。 お手紙によると、バルトンの肖像写真のほとんどは小川一真の撮影で、出版された写真集もすべて小川一真の版、製本だそうだ。 そういえば、半藤一利さん、お名前も、おつむのかたちも、どこか似ている、という。 バルトン亡き後の永田町の官舎の火事で、焼け残った貴重な写真機や資料を、小川一真が「お松(満津)さん(バルトンの妻)にゃ用はあるめぇ」と持って行ってしまったので、ベルツ・はなが「もうちょっと挨拶のしようもあるだろうに」とプンプンだったという話が、バルトンの子孫、鳥海家には伝わっていて、小川一真の評判がよくないけれど、きっと有効に使われたのだろう、とも書かれていた。