知的好奇心を喚起する「連」と私塾の仕組み2021/07/25 07:53

 田中優子さんと松岡正剛さんの対談『江戸問答』(岩波新書)を、「連」についての話から、もう少し読んでみたい。

 松岡正剛…田中さんが研究された「連」というのは、せいぜい十数人ほどの単位の人々が「好み」を共有するだけで成立していた。 そういうものが、狂歌とか俳諧とか狂詩とか、三味線の豊後節(浄瑠璃の一つの流派、一中節に文弥節を加えたような芸風、扇情的で劇的)から常磐津まで、ありとあらゆるものについて成立していた。 こういう「連」と私塾の関係はどうなっていたのか。 このあたりは誰か研究している人はいるのか。

 田中優子…まだそういう研究はない、文人結社と私塾の関係、「連」と私塾の関係を追っている人はいないと思う。 それぞれ別々に研究している人はいるのだが。

 松岡…どうも、そこに日本の「学びの方法」のいちばん大事なところがひそんでいるように思う。 おそらく私塾と文人結社、さらには「連」のようなものが、どこかで重なりあいながら多角的に動いていたんだとみたほうがいいのではないか。 だからこそ、就職が有利になるわけでもない私塾に、みんなが殺到するというようなことが起こる。

 田中…そういう可能性はあると思う。 まず「連」的なものは、平安時代の歌人たちの世界からずっと続いてきているもので、中世に仏教の「講」と交わるが、生活のなかに定着していた。 私塾は、学問が僧侶や貴族や武士の独占ではなく、その他の人々に浸透した江戸時代に広がる。 文人結社は、学問が同時に絵画や音曲や詩歌俳諧などと個人のなかで共存することで、私塾からも生まれ、ほかのサロンからも生まれるわけだが、そのころになると、文人の交わりが私塾に影響し、とりわけ江戸では俳諧の媒介によってさらに一般化して「連」のかたちをとったのだと思う。 全国を歩く俳諧師のはたした役割も大きい。 寺子屋の卒業生がつくる筆子中(ふでこちゅう)が俳諧を学ぶ場になることもあり、私塾がなくとも集まって学ぶ、創造する、という生活が当たり前になったのだろう。  連と私塾は江戸時代にとっても明治時代にとっても、知的好奇心を喚起するのに不可欠な仕組みだったと思う。

 松岡…伊藤仁斎先生に習ったからといって出世できるわけではないし、先生になって生徒をとれるわけでもない。 でも学校は好きなように選べるし、学校を出て俳諧をやってもいいし、和算をやってみるのもおもしろいし、山水画や七弦琴や煎茶を楽しむのもいい、そのための「連」がいくらもあって、誰をも受け入れてくれる。 いまふうに言うと「コモンズ」がたくさん私塾や藩校を取り巻いていたんじゃないか。 そこを人々が流動的に動き回っていたのではないか。

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