法政大学を創立した二人の杵築藩士と私塾2021/07/26 07:13

 田中優子さんは、私塾を非常に重要だと思ったきっかけは、法政大学の総長になって、大学史を調べ自分のものとして取り入れていく過程で、法政大学の創立者と私塾の関係に気づいたからだという。 法政大学は大学制度ができる前の1880(明治13)年に、東京法学社という名前で、杵築藩士であった20代の若者が創始した。 1881年になってから、お雇い外国人フランスの法律学者ボアソナードの門人が代言局(弁護士事務所)を切り離す方法で、結社としての東京法学社を学校としての東京法学校にしている。 田中さんは、大学のストーリー、「ボアソナードの教えでつくられたフランス系の大学」という位置づけには、何か大事なものが欠落していると思えたという。

 創設にかかわった二人の若者は、江戸時代に生まれ、藩校で教育を受けている。 創始者の一人、伊藤修の家は私塾をやっており、もう一人の金丸鉄(まがね)は藩校「学習館」でフランス語を学んでいた。 二人とも武士だから藩校にも入っているけれども、私塾にも入っていた。 杵築藩には藩校のほかに、なんと15もの私塾があり、その一つが九州でもっとも早くできた三浦梅園の梅園塾(豊後国東)で、ほかにも幕末維新の国学者の物集高世(もずめたかよ)の物集塾があった。 地方の藩にはこのように非常に多くの私塾があって、そこで学んだ人々が新しい時代を拓くべく、政治結社や学習結社を次々とつくっていたようだ。