福沢諭吉と杵築、臼杵、「中津藩の漢学」2021/07/28 07:09

 法政大学を創立した二人の杵築藩士の話を読んで、当然私が思い出したのが、豊前中津出身の慶應義塾の創立者、福沢諭吉だ。 福沢が中津藩に呼ばれて江戸鉄砲洲の中屋敷で蘭学の塾を開いたのは数え25歳(満23歳)、20代の若者だった。 梅園塾(豊後国東)、三浦梅園の名も聞いたことがあった。 大分県の地図を見てみると、北から中津、宇佐、国東半島、杵築、日出(ひじ)、別府、大分、臼杵、津久見、佐伯と続く。 中津と杵築は、ごく近い。 これから出てくる臼杵は、やや遠い。

 『福翁自伝』の「大阪修業」「四十両の借金 家財を売る」のところに、父百助の蔵書を売るのに、中津に何十両という金を出す人がいない。 福沢が4、5年その塾に通って漢書を習った白石常人(照山)先生が、藩で何か議論をして中津を追い出されて豊後の臼杵藩の儒者をしていたから、臼杵まで行って相談すると、先生の世話で臼杵藩に十五両で残らず買い取ってもらえた、とある。 富田正文先生の註によると、この当時、白石は中津藩士としての身分上、城門の当番を命ぜられたのを憤り、上司に抗議したので藩から放逐された、この時臼杵藩の買い取った書物の一部分は現在臼杵図書館に残っている、という。

 『福澤諭吉事典』I生涯1生い立ち「学問形成」に、「中津藩の漢学」「中津での学問」の項目がある。 西澤直子さんの「中津藩の漢学」から読んでみよう。 中津藩でも漢学の中心は幕府が正学と定めた朱子学であったが、享保2(1717)年に奥平家が丹後宮津から入封する際、京都から古義学派の学者を同伴し、以後古義学を主流に、19世紀になると亀井南冥(1743~1814)・昭陽(1773~1836)父子による亀井学の影響を強くうけることになった。 古義学は論語・孟子の研究を中心に、朱子学の観念論を批判し、日常の中での道徳の実践を重んじる学問で、亀井学は徂徠学を基調としながらも、従来の儒学の枠組にとらわれず広い可能性を持つ学問であった。 その結果、中津藩では藩校を中心に漢学が展開する中で、蘭学や東洋医学にとらわれない医学も発展した。

 藤田敬所(1698~1776)は、奥平家と共に移住した古義学派の儒者土居震発(1686~1735)に師事し、のち京都で伊藤東涯に学んだ。 中津に戻ったのち、三浦梅園(1723~89)や倉成竜渚(1748~1812)らを育てた。 倉成は藤田のもとで学んだのち京都の古義堂に留学し、寛政8(1796)年に藩主奥平昌高の命を受け、野本雪巌(1761~1834)と共に藩校修脩館の設立に尽力した。 野本も倉成に学んだのち、京都に留学している。 野本の息子白巌(通称武三、号は真城山人。1797~1856)は、三浦梅園の門人に学び亀井父子の薫陶を受けた帆足万里(1778~1852)に師事。

 福沢諭吉が学んだ学者は、服部五郎兵衛、兄と同様野本白巌、野本の門人で江戸の古賀侗庵(6月16日に書いた渋沢栄一が備中の一橋領の塾で親しくなった阪谷朗盧も古賀侗庵に師事)や昌平坂学問所で学んだ白石常人(照山)であった。 白石は遺稿などを通して亀井父子に私淑し強い影響を受けていることが指摘されている。

 明治初年頃までに慶應義塾に入学した中津藩出身者には藩校修脩館で学んだ者も多く、生涯福沢の補佐を務めた小幡篤次郎はすでに同校で教鞭をとっていたが、福沢の求めに応じ江戸へ出て洋学を学び始めた。

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