福沢諭吉の「中津での学問」2021/07/29 07:13

 『福澤諭吉事典』、福沢の「中津での学問」は、坂井達朗さんと日朝秀宜さんの執筆だ。 福沢諭吉は服部五郎兵衛、野本白巌、白石常人の三人の師からそれぞれ漢学を教わった。 最初は数え5歳のとき、中津で服部五郎兵衛に四書の素読を教わった。 服部は専門の漢学者ではなく、中津藩の供番という家格で、禄高200石の上士であり、奏者番や元締役を勤め、鹿児島で西洋砲術を修業してきた人物である。 次いで兄同様、野本白巌に学んだ。 諭吉の父百助は白巌の父雪巌に学び、百助も白巌も豊後日出藩(ひじはん)の帆足万里の門下生であった。 白巌は藩主奥平昌猷(まさみち)の侍講も勤め、門下生と共に中津藩の財政改革を進めていたところ天保12(1841)年に反対派から攻撃を受けて、隠居を命じられてしまう。 これにより諭吉の漢学修業は、数え8歳で休止する。

 14、5歳になると、近所の者が皆、本を読んでいるのに自分だけが読まないでいる恥ずかしさから、白石常人の家塾晩香堂で漢学修業を再開した。 白石は白巌の門下生で、江戸にも遊学して亀井南冥・昭陽父子の亀井学を信奉していた。 諭吉はこの晩香堂に4、5年ほど通い、論語や孟子などの経書に関する経義の研鑽に勉めた。 特に詩経と書経をよく読み、それから蒙求、世説新語、春秋左氏伝(左伝)、戦国策、老子、荘子の講義を聞き、史記、前後漢書、晋書、五代史、元明史略を独学した。 それらの中でも特に左伝が得意で全部通読し、11度も読み返して面白いところは暗記した。 諭吉の学力は、最初は意味を考えずにまず読む素読の面で他人に遅れてしまうことが多かったが、内容について問答する会読の面では群を抜いていたという。

 嘉永6(1853)年、御固番(おかためばん)事件が起きる。 中津藩で従来は足軽の役目であった城門警備を下士にやらせることになり、白石らが抗議したところ、追放処分となった(昨日書いた『福翁自伝』富田正文先生の註にあった一件)。 これにより諭吉の漢学修業は再度中断した。 その後の諭吉は漢学を離れ、長崎に遊学して蘭学の道を歩むことになるが、この長崎遊学の後押しをしてくれたのも、野本白巌を中心とする野本の家塾にかかわる人びとであった。

 このように諭吉は服部、野本、白石の三人の師からそれぞれ漢学を教わったが、学問的には野本を通じて学んだ帆足万里の自然科学的な内容と、白石を通じて学んだ亀井学の内容がその後の諭吉の思想形成に大きな影響を及ぼしたものと考えられる。 特に亀井学の特徴である呪術や迷信の否定、非合理性の排除、拡大解釈による応用の重要性の認識、国家の独立と国家間の対等性の重視、君臣関係の相対化、言論や学問の自由の尊重、権謀術数の肯定、法家思想への高い評価、孔子以外の儒家に批判的という諸点と、諭吉の思想的特徴の類似性が指摘されている。

 坂井、日朝両氏の解説を全部引いたのは、とくに最後の亀井学と諭吉の思想的特徴の類似性の話が興味深く、勉強になったからだった。

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