地図上の不思議な形の道路2021/08/24 07:01

 子供の頃、アンプルを製造していた父の工場が、目黒区清水町(現目黒本町2丁目)にあったので、「元競馬」という地名(バス停)は知っていた。 中延の家から工場へ行くのに、車だと第二京浜で大崎広小路まで行き、山手通りを大鳥神社まで行って、目黒通りに入るコースだったからである。 1万分の1の地図を見ると、下目黒4丁目と5丁目に、周囲の碁盤目と異なって、カーブをした不思議な道路があることがわかる。 これが目黒競馬場の痕跡だと知ったのは、ずっと後年のことだった。 目黒競馬場は1907(明治40)年から1933(昭和8)年まで、この地にあり、1932(昭和7)年の第一回日本ダービーもここで行なわれた。 府中に移転して、東京競馬場になったのだが、「目黒」競馬場の名を後世に残すため、「目黒記念」というレースが創設されたのだそうだ。

 ここまではマクラだが、「吉原」を書こうというのではない。 6月の「等々力短信」で『海軍日記―最下級兵の記録』を紹介した、野口冨士男さんの小説「夜の烏」(『なぎの葉考・少女』(講談社文芸文庫)所収)に、江東区と墨田区の境界付近に、周囲の碁盤目と異なって、小名木川を底辺として将棋の駒の形を連想させる斜線状の道路がある話が出てくる。 「夜の烏」は、永井荷風と若い時から交流のあった井上啞々との、文芸上でも、社会的な立場でも格差が開いて行く二人の関係を描いたものだ。 その井上啞々が明治42(1909)年に、この付近にあったお久という女の家にころがりこんで、深川夜烏というペンネームを名乗った。 野口冨士男さんの『わが荷風』(岩波現代文庫)には、「俳号を深川夜烏と称した井上啞々、本名は精一で、荷風とは(一ッ橋の高等師範学校)附属中学入学当時から親交をもって、のちに荷風主宰の文芸雑誌「文明」、「花月」の編集に協力するなど、狷介(けんかい)でめったに胸襟をひらくことのなかった荷風にとっては唯一といって恐らくまちがいのない莫逆(ばくげき)の友であった」とある。

野口さんは、戦時中の昭和16、7(1941、2)年頃に入手した、大正13(1924)年9月に春陽堂から出版された永井荷風の『麻布襍記』の小品文『梅雨晴』のなかに、啞々の代表作として『烏牙(うが)庵漫筆』が挙げられていて、はじめてその題名の文章があることを知った。 岩波書店版の「荷風全集」におさめられたその文章でも、『烏牙(うが)庵漫筆』となっていた。 34、5年間『烏牙(うが)庵漫筆』と思っていたのだが、たまたま参加した永井荷風研究会の後、声をかけてきた岩崎宏也が送ってくれた、大正7(1918)年10月の「新小説」の現物からの複写では、『鳥牙(てうが)庵漫筆』だったのである。 《鳥牙》は、すなわち《鴉(からす)》にほかならない。 烏(からす)の牙では、むしろ意味をなさないのである。

 それで、野口冨士男さんは岩崎宏也と門前仲町で待ち合わせ、お久という女の家のあったあたりを歩くことになったのだった。