「マラリア、知られざる日米の攻防」 ― 2021/09/09 06:55
橋本祐二さんのご不満はよくわかるが、私には「感染症に斃れた日本軍兵士(追跡~防疫給水部)」という番組、初めて知ることが多く、勉強になった。 先の大戦で日本軍は、ロジスティクスに失敗して敗れたと認識していたので、まず開戦当初は「防疫給水部」という組織があったことに驚いた。
前半の「マラリア、知られざる日米の攻防」。 当時の状況、日本軍は1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃と同時に香港、マレーシア、フィリピン、グアム島、ウェーク島などでも軍事行動を開始し、開戦を予期していなかったアメリカやイギリス軍に多大な損害を与えた。 1942(昭和17)年2月にはイギリスのアジア最大の基地シンガポールを占領し、イギリス軍の13万8千人の将兵を捕虜にした。 3月にはオランダ領東インド諸島(ほぼ今日のインドネシア)を制圧し、さらにビルマに侵攻してラングーンも日本軍の支配するところとなった。 5月までにニューギニアまで制圧地域とし、東南アジアに広大な勢力圏を築き上げることになった。
マラリアは、ハマダラカの媒介するマラリア原虫の血球内寄生による感染症。 赤血球内で増殖・分裂して血球を破壊する時期に発熱。 48時間ごとに高熱を発する三日熱マラリア、最初の発作から72時間ごとに高熱を発する四日熱マラリア、発熱が不規則な卵形マラリア、熱帯性マラリア(悪性マラリア)に分れる。 特効薬キニーネがマラリア唯一の治療剤であり、キニーネを呑むことでマラリア原虫を駆除する対策が可能だ。 統治下の台湾で、血液を採取してマラリア原虫の有無を調べ、キニーネを投与する対策があみだされた。
番組を見るまで、全く知らなかったのだが、キニーネをその樹皮から採取するキナの木は、ジャワ島でほとんどが栽培されており、日本軍は進駐によって、キニーネを世界的に独占することになった。 東南アジアに広がった戦闘地域は、マラリアの危険地帯である。 アメリカ軍は当初、多くの兵士を戦闘によるよりも、マラリアなどの感染症で失った。 アメリカ軍はマラリア感染を抑え込むために、キニーネに代わる特効薬の「アテブリン」を開発、兵士に大量供給することを優先した。
1942(昭和17)年2月にシンガポールを陥落させた日本軍は、6月に南方軍防疫給水部800人を編制しシンガポールに置いた(現・保健省の建物)。 防疫給水部は、キニーネを兵士に呑ませ、医療用石井式濾水機を前線へ送る一方、対蚊対策として池沼に油を撒くなど、当初はマラリアを抑え込むことに成功していた。
しかし戦線が拡大し、中国から、ニューギニア、東南アジアに広がるにつれ、医薬品や食料など物資の輸送がうまく行かなくなってくる。 物資の補給線を断たれ、制空権も失った。 キニーネなどの成功体験があるが故に、なかなか対策の転換ができなかった。 95歳から100歳になっている当時の兵士たちの証言では、衛生兵を殺して、キニーネを盗ったり、マラリアとアメーバ赤痢で野戦病院が屍(しかばね)の収容所になっているといった悲惨な状況になっていく。 1943(昭和18)年7月杉山元参謀総長は、「マラリアのために戦力は1/4に減じてしまった」「増員してやっても、マラリア患者をつくるようなもの」と書いている。
アメリカ軍は、マラリア特化部門をつくり、ニューギニアで調査ユニットが一元化された権限で対策に当り、医師が司令官と同等の権限を持っていた。 アメリカ軍は、戦場で感染症を管理することに成功した。 1945(昭和20)年4月の沖縄戦では、DDTが散布されたが、大量生産されていた。 戦後の日本で、みんなが頭から振りかけられたDDTだ(私は幸いかけられた記憶はない)。 1960年代、ベトナム戦争で大量に散布され、環境汚染や発がん性で問題となり、規制されたが。
餓死、戦病死が、戦没者の6割といわれる、日本軍の情報とロジスティクス失敗のくだりは、まことに哀れで、戦争指導者の責任は重く、当然今日の政府のコロナ対応を思わざるを得ないのだった。
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