徳川との戦いに備える金沢「惣構」 ― 2021/09/13 07:10
慶長3(1598)年8月に秀吉が死去、慶長4(1599)年閏3月に前田利家が死去すると、9月前田利長に謀反の噂が出、その冬、徳川と前田の和睦交渉が始まる。 利家の妻まつが徳川の人質となり、慶長5(1600)年春、和睦に成功、前田は最大のピンチを脱する。
謀反の噂が出た前田利長は、徳川との戦争に備えて、慶長4年にキリシタン大名として知られる高山右近に命じて「惣構(そうがまえ)」をつくらせた。 1か月で造ったと伝えられている。 金沢城を中心とした城下町を囲い込んだ堀や、堀の城側に土塁(土居)を築いたこれが、「内惣構」である。 さらに三代藩主前田利常が慶長15(1610)年に家臣の篠原一孝(かつたか)につくらせたのが「外惣構」、金沢城の堀も含めると三重の防衛ライン、堅固な守りとなる。
『ブラタモリ』「金沢」は、加賀百万石の城下町の繁栄を守った仕掛けを探り、まず長町武家屋敷跡からこの「惣構」の痕跡を探した。 豊臣秀吉が五奉行の上においた政権の最高機関である五大老(老衆(おとなしゅう))、5人の有力大名の関ケ原前後の石高をくらべると、徳川家256万石→400万石、前田家83万石→120万石、宇喜多家57万石→×、上杉家120万石→30万石、毛利家120万石→37万石と、大きくなって残ったのは徳川家と前田家だけだ。
金沢の道は、70%が道幅は二間(3.6メートル)と、江戸時代の道幅が残っているという。 外道(そとみち)に沿い川(堀)があり、段差がある。 河岸段丘の上に土塁(8m~10m)が築かれ、内道があって、城の方向となる。 「内惣構」が全長3キロメートル、「外惣構」は全長7キロメートルに及ぶ。 その道や段差、つまり「惣構」の痕跡は、近江町市場の中でも、上近江町のスーパーの中でも確認できた。
城へ向かうのには、北国街道の香林坊橋のところに、香林坊の木戸があった。
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