金沢を火事から守った辰巳用水 ― 2021/09/14 07:07
『ブラタモリ』「金沢」「加賀百万石はどう守られた!?」の後半は、金沢を危機から守ったもう一つの巨大な構造物について、であった。 「外惣構」が出来てから21年後の寛永8(1631)年4月14日、民家から出火した火事が大火となり、金沢城を含む城下町に大被害をもたらした。 金沢城も焼け落ちた。 台地の先端に城を築いた金沢には、弱点があった。 犀川と浅野川、二つの川から水を取れないのだった。
さっそく金沢城から11キロの犀川上流で取水して、台地のへりを通って、金沢城に至る水路の大工事を開始、大火の翌年1632年辰巳用水を完成したのである。 『ブラタモリ』では、兼六園の徽軫(ことじ)灯籠近くにある石畳が、用水の痕跡の石管であり、角の水の桝には水の通る穴が残っているのを見せていた。 兼六園(当時の竹沢御殿)と金沢城の二の丸の間には堀があり、石川橋がかかっている。 その部分、低地から高地へ、さらに低い場所を通って、「逆サイフォン」空気圧の原理で水を送っていたのを、実験でやってみせた。
辰巳用水は、11キロ先の東岩取水口(金沢市上辰巳町)で取水し、台地のへりのトンネル部分が4キロに及ぶ。 辰巳用水の絵図に蒲鉾型の印が沢山あるのだが、トンネルを掘った時の横穴で、現在でも点検や落盤などの修理用に使われている。 横穴は30メートルおきに、139か所残っている。 その一つから高さ2メートルの水路にタモリが入って、100メートルほど歩いたが、岩盤をくりぬいたノミの跡が残っていた。 大変な工事だったろう。
防火のために引かれた辰巳用水は、城下町の暮しを潤し、田畑を広げた。 380年前につくられた辰巳用水が、その後も、金沢の繁栄を支え続けたのである。
『ブラタモリ』「金沢」は、城下町における水の確保の重要性を認識させてくれた最初で、それは「小田原」「沼田」、そして江戸の町づくりへも通じる。 「会津」にも猪苗代湖から水を引く「戸ノ口用水」の話があった。
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