谷根千時代の若き室生犀星2021/09/15 06:45

 「朗読」の時間、室生犀星の作品集のもう一つは、『或る少女の死まで』だった。 室生犀星は、10日に書いた略歴で、明治42(1909)年4月に友人表棹影が病没した後、この頃徴兵検査を受け丙種合格、9月には裁判所を退職、10月福井県三国町の『みくに新聞』に三か月、翌明治43(1910)年2月金沢『石川新聞』に二か月ほどの短期間勤めた。 同年5月、裁判所時代の上司赤倉錦風を頼り上京、下谷根岸の赤倉家に止宿し、赤倉の薦めで東京地方裁判所の地下室での裁判関係の筆耕に通う。 北原白秋や、『新聲』に詩を選んでくれた児玉花外を訪問する。 7月本郷根岸片町で下宿を開始し、このあと谷中三崎町、千駄木林町などを移り住む。

 『或る少女の死まで』では、犀星自身と思われる「室生」という主人公が、駒込林町の裏町の下宿にいて、団子坂からやや根津に寄った鳥屋や淫売屋の小路の中のS酒場で、友人のHやOと一緒にかなり酒を飲んでいた。 酔っ払った制帽をかぶった医大生が、徳利を持ってついで廻りに来たりしていた。 そこへ遊び人風な、日焼けをした、下駄のように粗雑な感じの男が、その妻らしい厭(いや)に肥った女を連れて、入って来た。 店には十二、三の鶴のように痩せた女の子がいて、酌などしていたのだが、その男が酒が遅いと女の子に文句を言う。 医大生が「弱いものさえみればいじめたがる奴があるもんだ」と毒気のある声で聞えよがしに言ったので、大喧嘩になる。 外に出て、もみあっている内に、男の額が割れて、血が流れる。 喧嘩に巻き込まれた主人公は、千駄木の裏を逃げ帰り、太田ヶ原の清水で傷を洗って、宿に戻って寝ていると、駒込署の刑事が来て、警察に連れて行かれる。 この小説の冒頭は、その寝ているところに刑事が訪ねて来る場面から始まっている。

 舞台は谷根千、谷中根津千駄木である。 この界隈、「今までブログに書いた谷根千」<小人閑居日記 2020.12.15.>で整理一覧したように、何度か行ったことがあるし、本駒込には家内の同級生ブログ「マーちゃんの数独日記」の川口政利さんもお住まいで、周辺を案内して頂いたこともあった。 そこで早速、室生犀星『或る少女の死まで』のことを、メールでお知らせした。 「ネットで地図などを検索してみると、駒込林町は千駄木5丁目の高村光太郎旧居のあたりか、太田ヶ原は日本医大の救急救命センターの北側、古道薮下道の辺、駒込署はおそらく場所が変わっていないでしょう東洋文庫の隣というわけで、みなご近所のようです。」と。

 すると、さっそく返信を頂き、駒込署は20年ほど前に東洋文庫の隣に移転し、前にあった所には現在「本駒込地域活動センター」があるという。 吉祥寺に近い、そのセンターには、川口さんの講演や三遊亭兼好の落語独演会を聴きに行っていたのであった。 太田ヶ原は、現在「千駄木ふれあいの杜」になっていて、太田が池を含む原が、太田ヶ原のようだそうだ。 「千駄木ふれあいの杜」で調べると、太田道灌の子孫の太田摂津守の下屋敷があったのが、太田ヶ原の由来だそうで、日本医科大学から世尊院までの広大な敷地だったとあった。

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