「ウィーン世紀末のジャポニスム」2021/09/27 07:03

 そこで、番組の團伊玖磨さんと日本研究家ペーター・パンツァーさんの会話と、「ウィーン世紀末のジャポニスム」に戻る。 万国博覧会の日本の展示は大評判となり、ウィーンに「日本の横風」が吹いて、さまざまな影響を与えた。

 まず、美術。 クリムトの絵を見ると、縦長の画面、明らかに日本の模様、 判子みたいなサイン。 エゴン・シーレの《自画像》は浮世絵の構図だし、《晩秋の小さな木》もそうだ。 カール・モーザーの入江の絵には、広重の影響がある。 ルドルフ・バッファーの舞台衣装のデザインは、日本の模様だ。

 ついで、建築。 建築家オットー・ヴァーグナーの作品には、壁の絵画的美しさ、ウロコ模様△△△など、日本の影響が見られる。 團伊玖磨さんは、旧知の中野田鶴子さんのアパートを訪ねる、ピアニストと言ったか夫は今、日本にいるという。 古い建物だが、天井、床、窓はオリジナルで、障子窓のような中仕切り枠組がある。 軽みと曲線は、日本的だ。

 ペーター・パンツァーさんのウィーン大学は、1365年創立の古い大学で、映画『第三の男』のロケが行われた、と。 岩倉使節団に随行した伊藤博文が、その後1882(明治15)年に憲法調査に訪れてロレンツ・フォン・シュタインから憲法を学んだ。(岩倉使節団、憲法調査、伊藤博文と福沢<小人閑居日記 2017.6.2.>参照)

 團伊玖磨さんは、この古い街ウィーンから新しい芸術が生まれたと言い、音楽の歴史に思いを馳せる。 馴染のドブリンガー楽譜店を訪れ、楽譜、古書の初版本などを探す、ここの五線紙もいい、と。 ウィーン万国博覧会の後、日本主題の音楽がロンドン、イタリア(マダム・バタフライ)などヨーロッパ各地で生まれた。 ルドルフ・ディートリッヒ(1861~1919)は、ピアニストで、 東京音楽学校で教えた(1888~1894)。 作曲した「テコナマーチ(手児奈行進曲)」には「宮さん、宮さん」などの旋律を入れた。 ポール・ナナコ(七子)がピアノを演奏したが、金子堅太郎のひ孫で、團伊玖磨は大叔父だという。

 ニューイヤーコンサートで毎年見る楽友会館ホールは、万国博覧会の4年前に出来たという。 團伊玖磨さんの指揮している映像も流れた。 最後に團伊玖磨さんは、ペーター・パンツァーさんの案内で、かつての日本との文化交流の現場、プラーター公園の万博跡地を訪れた。 中央の道路並木の先に、1937(昭和12)年まで万博の本館があったが、残念ながら焼失したという。 日本庭園は雑木林になっていた。

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