「国士」杉山茂丸と、二代の「作家」夢野久作 ― 2021/09/06 07:16
私が思い出したのは、NHKのBSプレミアムで放送された「杉山家三代の物語」だった。 杉山茂丸、杉山泰道(夢野久作)、杉山龍丸の「杉山家三代」についての2011年の番組で、ネットを探したらTOTOROOさんという方が「ととろお三籟日記」というブログに詳しく書いていて、いろいろ思い出すことができた。 「トライ・エイジ~三世代の挑戦~」第3回「杉山家三代の物語」という番組だった。 なお、第1回は鉄道技術者「島家三代」安次郎、秀雄(新幹線)、隆(台湾新幹線)、第2回は国語学者「金田一家三代」京助、春彦、秀穂だった。
杉山茂丸(1864(元治元)年~1935(昭和10)年)は、福岡藩士杉山三郎平の長男で、ルソーを読み自由民権の思想に触れ、また佐々(さっさ)友房の紹介で出会った頭山満(とうやまみつる)に共鳴、国権論者となった。 伊藤博文、山県有朋、後藤新平など多くの政治家と接触、政財界の在野の黒幕、「国士」として活動した。 朝鮮、中国への進出を策し、台湾銀行、南満州鉄道建設、韓国併合などの裏面で動き、他方で門司築港、九州鉄道建設、関門海底トンネル事業など北九州産業開発に力を注いだ。 一介の浪人であることを本分とし、官職への誘いに応じることはなかった。 著書に『百魔』『百魔続編』がある。
杉山泰道(夢野久作)(1889(明治22)年~1936(昭和11)年)は、杉山茂丸の長男として福岡市に生まれ、本名直樹、両親の離婚により、またほとんど家に帰ってこなかった父に代わって、幼少時から祖父の三郎平に育てられた。 三郎平は福岡藩の儒学者だったが、維新後武士も農業をすべきだと藩主に進言して謹慎処分となり、城下から移住して農業を始めた。 農業はなかなかうまくいかず、寺子屋から敬士義塾と学問を教えて生計を立てた。 直樹は、慶應義塾大学文科に入るが、父の命令で中退して、福岡で農地を取得し農園経営を始める。 だが、農園経営に失敗、突然出家して僧・泰道と改名、京都や奈良を放浪し修行する。 その後、還俗し、自身が開墾を始めた杉山農園に復帰、結婚し、農園を経営する。 その傍ら、執筆活動をはじめ、新聞記者として関東大震災の取材なども行なった。 童話作家としての当初の筆名は杉山萌円だったが、その作品を読んだ父・茂丸が「これは夢の久作さんが書いたもの」(「夢の久作さん」は九州の方言で「夢ばかり見ている人」という意味だそうだ)と言ったので、夢野久作という筆名を使うようになった。
1926(大正15)年10月、怪談『あやかしの鼓』を発表して『新青年』にデビュー、引き続き『死後の恋』『瓶詰地獄』『押絵の奇蹟』などの名編を書いて作家的地位を確立した。 発表の舞台が『新青年』だったため、推理作家という分類をされているが、彼の作品は論理的な推理小説とはほど遠く、いずれも怪奇幻想のファンタジーで、しかも達意の文章と非凡な構成力に特色がある。 狂気の世界を描いた長編『ドグラ・マグラ』(1935(昭和10)年)は代表作である。
1935(昭和10)年、父・茂丸が東京で急死するとすぐに上京し、父が残した莫大な借金の処理と、複数の愛人・異母弟妹への対応に追われ、結局、その過労の為に急死する。 構想と執筆に10年も費やした『ドグラ・マグラ』の出版からわずか一年後、47歳という、あっけない最期だった。
「インドの緑の父(Green Father)」杉山龍丸 ― 2021/09/07 07:14
そこで「二つの悲しみ」を書いた杉山家の三代目、杉山龍丸(たつまる・1919年(大正8年)~1987年(昭和62年))である。 杉山泰道(夢野久作)の長男、1937年(昭和12年)福岡中学校(現福岡県立福岡高等学校)卒業後、1940年(昭和15年)陸軍士官学校を卒業した。 太平洋戦争のボルネオで大勢の部下が命を落とし、隊長である自身も胸部貫通銃創の重傷を負った。 陸軍少佐で終戦を迎え、戦後は戦死した部下の遺族を訪ねて全国を行脚した。 父の残した杉山農園で、農業に従事した。
やがて戦友の紹介で、農業の技術を学びたいというインドの青年を農園に受け入れ、農業を教えるようになる。 それが縁で1962(昭和37)年にインドに渡り、砂漠化が進んで旱魃と飢饉が続いているインドの悲惨な状況を目の当たりにする。
実は、龍丸の祖父・茂丸は、過激派のため日本に亡命したインドの独立運動家ラース・ビハーリー・ボースと交流があった。 ボースは、新宿中村屋の相馬俊子(愛蔵と黒光の娘)と結婚して、インドカリーを日本に伝えた人、中島岳志は著書『中村屋のボース』で、スバス・チャンドラ・ボースとの区別を明確にした。 茂丸は、ボースを介して当時のインドの惨状を知らされ、飢餓に苦しむ人々の写真なども入手していた。
インドの現状が、祖父の時代から長い時間が経過しても、何も解決していないことを見た龍丸は、農業家として、インドの飢饉対策には日本の治山治水の考え方が役立つはずだと思う。 そのためには木を植えようと考えるのだ。 そして、砂漠となったパンジャブ州の国道1号線沿いの延長470キロメートルに、成長が早く根が深く、パルプの原料となる植林をし、ヒマラヤからの地下水脈をせき止めて灌漑のための水を確保することを提案した。
植林開始と共に旱魃に襲われ、3年間で500万人が餓死する事態に、インド政府も協力を中止したが、龍丸は家族を日本に残して渡印、杉山農園を切り売りして、資金を調達して植林を続けた。 結局、4万坪の杉山農園、家屋敷はすべて人手に渡り、借家住いとなったので、国連の環境会議には出席を求めた友人から旅費を借りて出席したという。 また、祖父・茂丸が台湾で関与して開発された蓬莱米(台湾の気候に合うように改良された米、台湾で増収に成功)の種籾(海外持ち出し禁止)をインドに持ち出すことに、茂丸の孫ということも考慮されてか、成功した。
インド、パンジャブからパキスタンまでの国際道路のユーカリ並木とその周辺の耕地は、杉山龍丸の功績であるとされ、「インドの緑の父(Green Father)」と呼ばれているという。
私は、アフガニスタンに灌漑用水をつくった中村哲医師は、福岡市の出身で県立福岡高等学校の後輩だから、どこかで杉山龍丸の影響を受けていたのではないか、と思った。 最初は日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)から派遣されて、1984(昭和59)年にパキスタンのペシャワールに行ったようだけれど…。
日本濾水機工業、橋本祐二さんとテレビ取材 ― 2021/09/08 06:57
卒業25年の記念事業(現役の卒業式に招かれるので手土産の寄付集め)の実行委員会で、経済学部の世話役をご一緒した、橋本祐二さんからメールを頂いた。 橋本さんは、大正7(1918)年創業の100年企業、日本濾水機工業株式会社(ロスイキ)の会長だ。 2014年に社長を、公認会計士で大手監査法人や経産省にいたお嬢さんの美奈子さんが継いでいる。 橋本さんご夫妻のアメリカ留学中のそも馴初を、昔「等々力短信」第482号「ダッド&マム」に書いたことがあった。 ロスイキは、セラミックフィルター、濾過機、水処理装置の製造・販売、用水処理プラントエンジニアリングに、独自の精密濾過技術で発展し、独立独歩で事業を継続してきたことを誇る優良企業である。
メールは、8月22日(日)NHK BS1午後10時から放送のドキュメンタリー「感染症に斃れた日本軍兵士(追跡~防疫給水部)」という番組に、戦時中、給水部隊が使用した濾過機を日本濾水機工業が製造していた関係で、取材を受けたというのだった。
番組前半のテーマは、「マラリア、知られざる日米の攻防」。 1942(昭和17)年2月にシンガポールを陥落させた日本軍は、6月に南方軍防疫給水部800人を編制しシンガポールに置いた(現・保健省の建物)。 番組冒頭、橋本祐二さんが資料を持った女性を従えて登場、画面は資料を映しながら、日本濾水機工業が防疫給水部の石井四郎陸軍軍医中将の依頼を受け、前線の兵士の給水のために、同社の珪藻土による濾過筒を使った、泥水も99.9%濾過できる医療用石井式濾水機を開発したと説明、その濾水機の写真も出した。 そこで橋本祐二さんは、資料に歌詞のあった「防疫給水部の歌」というのを、歌った。 「♪山河幾百踏み越えて はるばる運んだ浄水機 馬よ頑張れ灼熱の あの前線へ塹壕へ 命と託すこの水を」 「♪友よ存分飲んでくれ 病に倒れてなるものか 病原菌を殲滅だ」
実は、番組で日本濾水機工業に関するものは、それだけだった。 感想メールを送ったら、橋本祐二さんから「お詫び」というメールが来た。 二日間に亘って撮影、インタビューの結果が、オマケで口ずさんだ鼻歌部分だけとは、唖然として次に大笑いした、TV番組などみんなこんな風なのか、と。 工場内は隈なく撮影、濾過機の仕組み、我社と軍との関係を誤解を招かないように長々と説明した。 濾過機の心臓部分であるフィルターは、我社が大正時代に発明し特許を有していたセラミックフィルターを、軍用濾過機の開発で頭を痛めていた石井軍医が、展示会で見つけて採用に至ったものだ。 装置は軍が開発したが、心臓部のフィルターは当社のオリジナルという点が大事だったのだが、、、。 最終的には、オマケで口ずさんだ軍歌の部分だけが取り上げられ、恥ずかしい上に、マスコミの取り上げ方というのは、こんなに勝手気ままなものなのだと思い知らされた。 そもそも橋本祐二さんの名前が間違っていて、奥様がその点を怒っていた。 初めに資料を持ち従って出たのが、社長の美奈子さんで、秘書みたいだとこれも笑い話になったそうだ。
「防疫給水部の歌」という軍歌は、橋本さんが学生時代に、父上が社内でほこりをかぶっていたレコードを見つけて持ち帰り、すでにヒビ割れがひどい状態だったのを、何とか歌詞を聞き取れと言われて、それこそ何十回も聞き直したため、メロディーを覚えていたのだそうだ。 「日本中で、今、歌えるのは一人だけなので、ちょっと聞かせてください」とおだてられて、口ずさんだのが、まさかそこの部分しか流されなかったので、唖然、そして大笑いだったというのであった。
「マラリア、知られざる日米の攻防」 ― 2021/09/09 06:55
橋本祐二さんのご不満はよくわかるが、私には「感染症に斃れた日本軍兵士(追跡~防疫給水部)」という番組、初めて知ることが多く、勉強になった。 先の大戦で日本軍は、ロジスティクスに失敗して敗れたと認識していたので、まず開戦当初は「防疫給水部」という組織があったことに驚いた。
前半の「マラリア、知られざる日米の攻防」。 当時の状況、日本軍は1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃と同時に香港、マレーシア、フィリピン、グアム島、ウェーク島などでも軍事行動を開始し、開戦を予期していなかったアメリカやイギリス軍に多大な損害を与えた。 1942(昭和17)年2月にはイギリスのアジア最大の基地シンガポールを占領し、イギリス軍の13万8千人の将兵を捕虜にした。 3月にはオランダ領東インド諸島(ほぼ今日のインドネシア)を制圧し、さらにビルマに侵攻してラングーンも日本軍の支配するところとなった。 5月までにニューギニアまで制圧地域とし、東南アジアに広大な勢力圏を築き上げることになった。
マラリアは、ハマダラカの媒介するマラリア原虫の血球内寄生による感染症。 赤血球内で増殖・分裂して血球を破壊する時期に発熱。 48時間ごとに高熱を発する三日熱マラリア、最初の発作から72時間ごとに高熱を発する四日熱マラリア、発熱が不規則な卵形マラリア、熱帯性マラリア(悪性マラリア)に分れる。 特効薬キニーネがマラリア唯一の治療剤であり、キニーネを呑むことでマラリア原虫を駆除する対策が可能だ。 統治下の台湾で、血液を採取してマラリア原虫の有無を調べ、キニーネを投与する対策があみだされた。
番組を見るまで、全く知らなかったのだが、キニーネをその樹皮から採取するキナの木は、ジャワ島でほとんどが栽培されており、日本軍は進駐によって、キニーネを世界的に独占することになった。 東南アジアに広がった戦闘地域は、マラリアの危険地帯である。 アメリカ軍は当初、多くの兵士を戦闘によるよりも、マラリアなどの感染症で失った。 アメリカ軍はマラリア感染を抑え込むために、キニーネに代わる特効薬の「アテブリン」を開発、兵士に大量供給することを優先した。
1942(昭和17)年2月にシンガポールを陥落させた日本軍は、6月に南方軍防疫給水部800人を編制しシンガポールに置いた(現・保健省の建物)。 防疫給水部は、キニーネを兵士に呑ませ、医療用石井式濾水機を前線へ送る一方、対蚊対策として池沼に油を撒くなど、当初はマラリアを抑え込むことに成功していた。
しかし戦線が拡大し、中国から、ニューギニア、東南アジアに広がるにつれ、医薬品や食料など物資の輸送がうまく行かなくなってくる。 物資の補給線を断たれ、制空権も失った。 キニーネなどの成功体験があるが故に、なかなか対策の転換ができなかった。 95歳から100歳になっている当時の兵士たちの証言では、衛生兵を殺して、キニーネを盗ったり、マラリアとアメーバ赤痢で野戦病院が屍(しかばね)の収容所になっているといった悲惨な状況になっていく。 1943(昭和18)年7月杉山元参謀総長は、「マラリアのために戦力は1/4に減じてしまった」「増員してやっても、マラリア患者をつくるようなもの」と書いている。
アメリカ軍は、マラリア特化部門をつくり、ニューギニアで調査ユニットが一元化された権限で対策に当り、医師が司令官と同等の権限を持っていた。 アメリカ軍は、戦場で感染症を管理することに成功した。 1945(昭和20)年4月の沖縄戦では、DDTが散布されたが、大量生産されていた。 戦後の日本で、みんなが頭から振りかけられたDDTだ(私は幸いかけられた記憶はない)。 1960年代、ベトナム戦争で大量に散布され、環境汚染や発がん性で問題となり、規制されたが。
餓死、戦病死が、戦没者の6割といわれる、日本軍の情報とロジスティクス失敗のくだりは、まことに哀れで、戦争指導者の責任は重く、当然今日の政府のコロナ対応を思わざるを得ないのだった。
室生犀星『性に眼覚める頃』、犀川の水を汲んで点茶 ― 2021/09/10 07:09
暇に飽かせて、NHK「らじる・らじる」の聴き逃し「朗読」で、室生犀星の作品集を『性に眼覚める頃』から聴き始めた(朗読は俳優の谷川俊)。 読んだことはなかった。 室生犀星は明治22(1889)年、金沢市裏千日町に、加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種とその女中ハルとの間に私生児として生まれた。 生後まもなく、生家近くの雨宝院(真言宗寺院)住職だった室生真乗の内縁の妻赤井ハツに引き取られ、7歳の時真乗の養嗣子室生照道となる。 実父はまもなく死去し、実母は行方不明になる。 明治35(1902)年義母の命令で長町高等小学校を3年で中退し、金沢地方裁判所に給仕として就職する。 裁判所の上司に河越風骨、赤倉錦風といった俳人がいて手ほどきを受け、文学書に親しみ始める。 『北國新聞』に投句したり(号、照文・てりふみ)、勤務先で回覧雑誌をつくる。 明治39(1906)年『文章世界』3月創刊号に小品の文章が初入選(号、室生殘花)、この年から筆名犀星を名乗り、明治40(1907)年『新聲』7月号に児玉花外の選で詩「さくら石斑魚(うぐい)に添へて」が掲載される。 明治41(1908)年、5月同郷の友人表(おもて)棹影、尾山篤二郎、田辺孝次らと「北辰詩社」を結成、初の小説「宗左衛門」が『新聲』8月号に掲載される。 明治42(1909)年、1月金石(犀川河口右岸の港町)登記所に転任、2月尼寺に下宿。 北原白秋から強い影響を受け、「かもめ」「海浜独唱」を作詩。 4月表棹影病没。
そこで『性に眼覚める頃』であるが、「私は七十に近い父と一しょに、寂しい寺領の奥の院で自由に暮した。そのとき、もう私は十七になっていた。」と始まる。 父は茶が好きで、私はよく父と小さい茶の炉を囲んだ。 夏の暑い日中でも、父と茶の炉に坐っていると、茶釜の澄んだ奥深い謹しみ深い鳴りようを、かえって涼しく爽やかに感じるのであった。
父は、若いころに妻をうしなってから、一人の下男と音のない寂しい日をくらしていた。 茶を立てる日になると、井戸水はきめが荒くていけないというので、朝など、 「お前御苦労だがゴミのないのを一杯汲んで来ておくれ。」 私がうるさく思いはせぬかと気をかねるようにして、いつも裏の犀川の水を汲みにやらせた。
庭から瀬に出られる石段があり、手桶をもって磧(かわら)へ出てゆく。 犀川の上流は、大日山という白山の峯つづきで、水は四季ともに澄み透って、瀬にはことに美しい音があるといわれていた。 私は手桶を澄んだ瀬につき込んで、いつも、朝の一番水を汲むのであった。
この朝ごとの時刻には向河岸では、酒屋の小者の水汲みが初まっていた。 この川の水から造られた「菊水」という美しい味をたたえた上品なうまい酒がとれた。
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