独り文明の炬火を点じて方向を示し前進する2021/10/04 06:59

 山内慶太さんの「『塾歌』の歌詞に込められた意味とは?」の次は、富田正文先生の二番の歌詞、「わが手に執(と)れる炬火(かがりび)は 叡知の光あきらかに ゆくて正しく照らすなり」の「炬火」についてである。

 これは「慶應義塾の目的」として知られる明治29(1896)年11月1日に芝公園内の紅葉館で開かれた慶應義塾故老生懐旧会で行なわれた福沢先生の演説にある。 よく引かれる演説の最後は、「慶應義塾は単に一所の学塾として自ら甘んずるを得ず」、「我日本国中に於ける気品の源泉、智徳の模範」となることを目指し、「居家、処世、立国の本旨を明(あきらか)」にし、それを口にするだけでなく「躬行実践」して、「以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり」と結ばれている。

 その演説の初めの方に、こうある。 「今を去ること三十年」「芝新銭座に」「一小塾舎を経営したる其時は、王政維新の戦争最中、天下復(ま)た文を語る者なし。況(い)わんや洋学に於いてをや。」 「当時我党の士は」「四面暗黒の世の中に独り文明の炬火を点じて方向を示し、百難を冒(おか)して唯前進するのみ。兵馬騒擾の前後に、旧政府の洋学校は無論、他の私塾家塾も疾(と)く既に廃して跡を留めず、新政府の学事も容易に興る可きに非ず、苟(いやしく)も洋学と云へば日本国中唯一處の慶應義塾、即ち東京の新銭座塾あるのみ。世人は之を目して孤立と云ふも、我は自負して独立と称し、在昔欧州にてナポレオンの大変乱に阿蘭(オランダ)国の滅亡したるとき、日本長崎の出島には其国旗を翻して一日も地に下したることなきゆゑ、阿蘭は日本の庇蔭に依り、建国以来曾(かつ)て国旗を断絶したることなしとて、今に至るまで蘭人の記憶に存すとの談あり。」とある。

 ここにも、出島のオランダの旗が出てくるわけで、「塾歌」二番の炬火(かがりび)は、この「炬火」だと山内慶太さんは指摘している。 これも、もちろん初耳だった。

コメント

_ tadakuni saitou ― 2021/10/07 21:56

[わが手に執(と)れる炬火(かがりび)は 叡知の光あきらかに ゆくて正しく照らすなり]
先に送りました、拙文の方向をこの言葉で更に、納得できました。
先人は素晴らしかったですね。

願わくば、今後の国会が「小手先のヤジ合戦に陥ることなく」、英知を絞り、堂々と正しい道を歩んでほしいと祈るばかりです。

マスコミ・メディアのレベルダウンを慶応義塾からでも正せないものしょうか?
大宅壮一が「テレビで一億総白痴」とはよく言ったものです。

思い込みでの意見ですが、「旗」に向かって、その照らす「道」を堂々歩くべく、導いて欲しいと願うものです。

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