シーボルトの植物についての情報収集2021/10/10 07:21

 オランダの歴史をちょっと振り返っておく。 オランダについて、10月3日の「慶應義塾塾歌」の謎、歌詞に込められた意味と、4日の当日記で福沢の「在昔欧州にてナポレオンの大変乱に阿蘭(オランダ)国の滅亡したるとき、日本長崎の出島には其国旗を翻して一日も地に下したることなきゆゑ」を引いたからだ。 1813年ナポレオンが欧州連合に破れたのを機に、オランダからフランス軍が撤退、すかさずオランダ人貴族3人が暫定政府を立て、イギリスに亡命していたオラニエ公を呼び返し、ネーデルランド連合王国(ベネルクス三国)が誕生、オラニエ公はウィレム1世となった。 1839年にベルギーが分離独立して、オランダ王国が成立(ルクセンブルクの分離独立は1890年)。

 大場秀章さんの『花の男 シーボルト』(文春新書・2001年)という本があるそうだ。 ネットで、その大場秀章さんの「シーボルトと彼の日本植物研究」という文章を読むことができる。 シーボルトは、オランダ領東インド(ジャワ島を中心とした現在のインドネシア)陸軍勤務の外科軍医少佐として、自然科学的調査の使命を帯びて、日本にやってきた。 どうすれば鎖国下の日本から最大限の資料と情報を入手できるかを周到に考え、それを実行に移した、と考えられる。 西洋医学の知識と技術を最大の武器として、最新のそれを伝授して日本人との交流を深め、彼らから資料や情報を得ることを考えた。 当時の日本では西洋医学(蘭方)への関心が高まっていた。 オランダ人に居留が義務付けられていた出島の外の、鳴滝に私塾を設けることが出来たのは特例中の特例だった。 独身だったシーボルトは、遊女の其扇(楠本滝)を妻として待遇し、女児稲を授かった。

 シーボルトが『フロラ・ヤポニカ(日本植物誌)』中にフランス語で書いた解説は、植物の自生地、分布、生育地の状況、学名の由来、日本名、その由来、利用法、薬理、処方など多岐にわたっている。 シーボルトがいかに多種多様の情報を収集していたかを如実に物語っている。 本草学者の水谷豊文、弟子の伊藤圭介や大河内存真、さらに宇田川榕菴、桂川甫賢などを「日本の植物学者」と記している。 「鳴滝塾」に集い来た塾生たちは、シーボルトの情報収集に多大の貢献をした。 居ながらにして、日本各地の植物に関する情報を集めることが出来た。 覚え書に四国や九州南部からの情報が多いのは、この地方からの入門者が多かったためだろう。

 日本の植物をヨーロッパに移入し、かの地の庭園を豊かなものにし、また林業の活性化を図ろうとしていたシーボルトは、緯度がオランダやドイツにより近い、本州東北部や北海道の植物にも強い関心を寄せていた。 北方の植物の情報の大半は、最上徳内から得たもので、ウラジロモミのところでその名を挙げて謝しているが、カラマツやモミもそうだろう。

 『フロラ・ヤポニカ(日本植物誌)』に収録された植物の種数は150に満たない。 チャノキなど『日本』に詳細に記載された植物もあるが、未発表のまま残されたメモやノートは相当な量にのぼる。 シーボルトは、すべてを見、そしてそのすべてをメモした。