小泉信三の富田正文に対する深い信頼2021/10/15 06:59

 10月3日、4日に「「慶應義塾塾歌」の謎、歌詞に込められた意味」「独り文明の炬火を点じて方向を示し前進する」を書き、大学のクラスメイトに知らせたら、メールをもらったり、ブログにコメントしてくれたりして、楽しかった。 ミニレクチャーのご本人の山内慶太さんからも、ブログを読んで下さったという有難いメールを頂いた。 レクチャーで話された内容は、『三田評論』2018年5月号が「慶應4年-義塾命名150年」の特集をした時に「塾歌に歌われた慶應4年」にもまとめられており、それは、福澤研究センターの『近代日本研究』に「慶應義塾塾歌と富田正文―歌詞にこめられた意味―」と題して詳細に論考したものを基にしているとのことだった。 早速、『三田評論』2018年5月号を探し出して読む。 芳賀徹さんが熱弁を振るっている座談会には、ポストイットが付いていたから、山内さんの「塾歌に歌われた慶應4年」も読んだのだろうが、恥ずかしいことにミニレクチャーで得た理解にまでは達していなかった。 山内さんへのお礼のメールから、やり取りがあって、有難いことに『近代日本研究』の論考もファイルを送って頂いた。 というわけで、二つの見事で詳細な論考から学んだことを、10月3日、4日の続編として紹介してみたい。

 まず、小泉信三の富田正文に対する、その人柄と福沢研究への深い信頼、名文家だという確信である。 明治37(1904)年制定の旧塾歌に代わる新塾歌をつくる話が出たのは大正15(1926)年だったそうだから、結局14年もかかることになる。 初めは塾生から「塾歌懸賞募集」し、審査委員は、板倉卓造、横山重、与謝野寛(鉄幹)、高橋誠一郎、野口米次郎、正木俊二(不如丘)、小泉信三だった。 応募は80通あったが、一等、二等に相当する作品はなかった。 それから、与謝野寛、さらに折口信夫に依頼し、ともに歌詞が出来たが、「塾歌に関する協議会」の採用するところとはならなかった。 この間、昭和8(1933)年11月に塾長が林毅陸から小泉信三に替わった。

 昭和11年5月20日の「塾歌に関する協議会」で、歌詞を富田正文に依頼することが決まる。 この時の協議会委員は、川合貞一、板倉卓造、高橋誠一郎、野口米次郎、林毅陸だったが、当日の会議には、川合、板倉の両委員と、塾長小泉信三、常任理事の槇智雄と倉井忠、塾監局主任小沢愛國が出席している。

 塾歌の作詞者として富田正文が選ばれたのは、小泉信三の存在が大きかった。 富田正文は慶應義塾の文学部在学中の大正12年9月に福澤先生伝記編纂所が設けられると、その時から石河幹明の助手となり、以来、『福澤諭吉伝』全四巻、『続福澤全集』全七巻の編集に従事し、戦後も、『福澤諭吉全集』全二十一巻、『福澤諭吉選集』全十四巻の編纂など、一貫して福沢諭吉の研究に携わった。 『福澤諭吉伝』が刊行されて伝記編纂所が解散した時に、当時図書館長だった小泉の理解もあり、図書館職員となり、以後、義塾の職員、三田評論の編集担当、塾監局総務課長等も勤めた。 戦後は長く慶應通信(慶應義塾大学出版会の前身)の社長を務め、福澤諭吉協会の理事長も務めた。

 小泉は『福澤諭吉全集』の編纂をはじめ、常に富田を支援し、富田への信頼は早くから深いものがあった。 富田の文章、福沢研究だけでなく、その誠実透明な人格を高く尊重していた。 昭和15(1940)年秋に富田の歌詞が提出され、11月12日に常任理事会と「塾歌委員会」で採用が決定した。 小泉の富田への信頼によって、ようやく完成に至ったのである。