文久遣欧使節を訪ねて来たシーボルトの妻子2021/10/28 07:16

 富田正文先生の『考証 福澤諭吉』(岩波書店)の索引で「シーボルト」を見たら、上巻の200頁に福沢が文久遣欧使節の随員としてプロシャ(ドイツ)に行った折に、シーボルトの妻子が訪ねてきたことが、例の「西航手帳」に記されているとあった。

 使節団はオランダからプロシャに入り、1862(文久2)年6月21日ケルンに一泊した。 書き入れは、「Hendrik von Siebolt 10. コールンにてシーボルトの妻及其二女一子に遇ふ」。 シーボルトは、いわゆるシーボルト事件で日本を追放され(1829年)、故郷に帰って日本研究の成果を著述するなどしていたが、帰国後に結婚して三男二女を儲けた。 1858(安政5)年日蘭通商条約が成り、彼に対する「日本お構い」が解除になったので、その翌年63歳の彼は13歳の長男アレキサンダーを連れて、再びなつかしの日本にやってきた。 3年後のその時、アレキサンダーは駐日イギリス公使館に勤務することになり(大河ドラマ『青天を衝け』で、パリの昭武・渋沢一行が薩摩にしてやられた時に暗躍した)、彼は長男を異邦に残して、再び故郷に向かう途上にあった。

 日本使節がケルンに一泊すると聞いて、シーボルト夫人(ヘレーネ)は一男二女を連れて、日本人に会いに来たものと見える。 日本の使節に会ったら、夫や長男の消息がわかりはしないかと思って訪ねてきたのだろう。 福沢の「西航手帳」にある「Hendrik von Siebolt 10.」というのは、次男のハインリヒのことで、ハンドリクはそのオランダ読み、10歳。 その下にマキシミリヤンという三男があるが、このときは伴っていない。 二女というのは14歳のヘレーネと12歳のマチルデである。 残念ながら、このことは手帳にあるだけで福沢の日記にも、ほかの随員の日記にも何の記録も見当たらない、という。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック