福沢諭吉とシーボルトの娘イネ2021/10/29 06:59

 10月10日の「シーボルトの植物についての情報収集」に書いたように、フランツ・フォン・シーボルトが最初に日本に来た時、独身だった彼は、遊女の其扇(そのぎ・楠本滝)を妻として待遇し、女児稲(イネ)を授かった(文政10(1827)年5月6日生れ)。 その楠本稲(失本(しいもと)ともいい、阿稲、伊彌、伊篤(いとく)とも書く)が、日本人女性初の近代産婦人科医となる。 シーボルトは帰国に際し、彼女を門弟の二宮敬作、高良斎に託す。 19歳で伊予に行き、二宮敬作に外科を学び、岡山で石井宗謙に産科を学ぶ。 嘉永5(1853)年、石井との間のタカを出産。 同4年から安政元(1854)年まで長崎で阿部魯庵に産科、外科を学び、同年宇和島に行って二宮および村田蔵六(大村益次郎)に蘭学および産科を学ぶ。 文久元(1861)年、シーボルトの再来日のため長崎に戻って開業のかたわら、長崎養生所のポンペなど歴代のオランダ人教師の講義を受け、明治3(1870)年上京。 明治10(1877)年まで築地で産科を開業。 明治6(1873)年、権典侍(ごんのでんじ)葉室光子の懐妊の際、宮内省御用掛に任命されてその出産を扱った。 辞書などに、この宮内省御用掛に任命されるについて、福沢諭吉の口添えがあった、と書かれているが、詳しい説明はなかった。

 『福澤諭吉書簡集』第一巻に、書簡番号149、明治6年7月30日付の杉孫七郎宛の書簡がある。 杉孫七郎は、幕末維新期に志士活動で活躍した旧長州藩士。 藩命で遣欧使節団に随行したので、福沢と同行している。 維新後、山口県権大参事や秋田県令を務め、このころ宮内大丞の地位にあった。

 「酷暑難凌、益御清安奉拝賀。陳ハ(のぶれば)蘭人シイボルトの娘伊篤(いとく)通称おいねハ、小生兼てより知る人にて、当春来築地え開業、産科を業とし、既ニ御旧同藩山尾君之方へも屢々罷出、御懇命を蒙る者なり。此度宮内省より御用召相成、定(さだめ)て産科之御用なるべし。御場所柄不案内ハ勿論、殊ニ婦人之義、大ニ心配いたし居候。就てハ此後度々罷出、不案内之義ハ伺も可仕、御心付之ケ条ハ御伏臓被仰下候様奉願候。山尾君より御差図も可有之候得共、尚私より内々貴所様え相願度、い才ハ当人参上可申上、幾重ニも宜敷御指揮奉願候。頓首。

  七月卅日                     福沢諭吉

    杉孫七郎様侍史                            」

 大意として【産科御用を以て宮内省に召されたシーボルトの娘伊篤を紹介し、世話を頼む】とある。 注に、こうある。 シーボルトの娘は志本(シイモト)伊篤(イネ)と名乗り、シーボルトの門人であった作州岡山藩の石井宗謙の妻となり、二人の間にできた長男謙道は適塾で福沢と同窓であり、親しく交際していたので、その縁故で福沢はイネをも知った。 イネは女医として一家をなし産科を得意とした。 のちに福沢の姉の今泉たうは、イネについて産科を学んでいる。

 「山尾君」は山尾庸三、天保8年生れ、旧山口藩士で、文久3年伊藤博文ら4人とともに渡英、各種工業を視察して明治3年帰朝、民部権大丞として横須賀精錬所のことを掌り、明治6年当時は工部大丞であった。

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