福沢諭吉と杉浦愛蔵、高橋順益2021/10/31 07:36

 7月9日の「渋沢栄一、パリ万博へ」と、10月7日の「『青天を衝け』と福沢の『西洋事情』」で、杉浦愛蔵=譲について書いていた。 渋沢栄一の篤太夫は、「横浜からパリへアルフェー号で出発する前、神奈川奉行所で、パリ万博使節団で共に行く外国奉行向山一履、医師高松凌雲、外国方杉浦愛蔵(志尊淳)、組頭田辺太一(この二人は二度目のフランス)に会う。 杉浦には、外国方の福地源一郎、福沢諭吉(中村萬太郎)も紹介され、福地はフランスで近づいて来るモンブランには気を付けろ、薩摩に通じているからと、注意する。 この福沢さん、背が低く、おだやかな感じだった。」

 新政府に出仕した「渋沢栄一は、大蔵省や民部省、外務省などの垣根を超え、広く日本に必要な物事を考え、即実行できるよう「改正掛(かいせいがかり)」を設置。 静岡藩から呼び寄せた前島密、杉浦譲、赤松則良を加えた改正掛をまとめ、皆で次々と新しいアイデアを立案し実行する。」 前島密が郵便制度を設計し提案するが、鉄道借款の処理でイギリスへ派遣されることになり、後を杉浦譲が引き継ぐ。 「明治4(1871)年3月、新式郵便が開始された。 杉浦譲が弟への手紙を投函、三日後に切手が貼られ判が押された返信が届いて、一同歓喜。」

 『福澤諭吉書簡集』に、杉浦愛蔵宛の書簡はないが、杉浦愛蔵の出て来る書簡があった。 杉浦愛蔵は、福沢の適塾以来の親友高橋順益の妻筆子の兄で、福沢家と杉浦家は親戚関係のような間柄であったらしい。 杉浦愛蔵の出て来る書簡は、『福澤諭吉書簡集』第一巻、書簡番号24、慶応元年8月16日付の南条公健宛。 南条公健は、一橋家の医者で、福沢や高橋順益、石井謙道と緒方洪庵の適塾の同窓生だったとも推測できるが、よくわからないという。

 書簡は、高橋順益の前日の急死に際して善後策を親戚友人で相談しているが、高橋家の後事をよろしく頼むというもの。 その手紙にもあるが、高橋順益の妻筆子と杉浦愛蔵の父、甲府勤番同心の杉浦良尚の「家記」によると、福沢と中村清太、石井謙道、杉浦愛蔵らが作成した「順益後事」に、身重の夫人は産後は自由にするようにとあり、財産は遺児と順益の妹愛子(石井謙道の許嫁)が折半するように取り決めていた。 なお、「家記」の順益と筆子の結婚当日の記事に、親戚として福沢諭吉(奥平侯臣翻訳方)とあるという。 また、福沢と夫人(土岐太郎八の娘)との橋渡しをしたのは、土岐家に出入りして主人に信用を得ていた高橋順益だったと、『福沢諭吉伝』第一巻6編にあるそうだ。

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