「大東亜中央病院」の日野原重明先生2021/11/05 07:17

 6月4日の「身近な地名、芝白金三光町、戸越、九品仏」に書いたように、池澤夏樹さんの『また会う日まで』で、昭和9年、益田ヨ子(よね)との再婚が決まり、秋吉利雄がヨ子を子供たち、文彦と洋子に会わせることにしたのは、九品仏の自宅だった。 私が今、住んでいる近くで、わが家を挟んで、ちょうど反対側の玉川田園調布に、日野原重明さんが亡くなるまで住んでおられた。

 『また会う日まで』10月3日の第415回、秋吉利雄は築地の水路部へ行く途中で、聖路加病院の日野原重明先生と会う。 「日野原先生」 「おや、秋吉さん。海軍少将が徒歩でご出勤ですか」 聖路加病院はアメリカの聖公会が作ったところだから、秋吉家のかかりつけ、なじみの入院先だ。 文彦も宣雄もここで手厚い看護の果てに天に旅立った。 日野原先生は、秋吉より二十歳ほど下だが、秋吉はこの人を心から信頼している。 聖路加病院、昭和20年の今は大東亜中央病院と名が変わっていて、屋根の十字架も取り外された。

 立ち話が長くなる。 病院内で使う言葉も英語が禁止された。 アメリカの医療をそのまま導入し、医師や職員にアメリカ人は多く、用語ももっぱら英語が使われていた。 カルテはドイツ語だが、ここでは英語でチャートと呼んでいた。 アメリカ人の医師や職員は帰国を余儀なくされた。 ベイスンと言いかけて洗面器と言い直す、ピッチャーを湯おけ、リネンルームは材料室、スプーンはしゃもじ、ポケットはかくし。 みんな言い間違えを笑いながら使っているが、どこで誰が聞き耳を立てているかわからない。 「他の人には言えませんけれど秋吉さんになら言えることがあります。日本はこんなに多くをアメリカに学びながら(なぜ)あの国を相手に戦争を始めたのでしょう?」 「わたしにはわからない」 「私は医学しか知りませんがあちらは何十歩も先へ行っていますよ。感染症に対してペニシリンという画期的な薬があるらしいのです」 「碧素(へきそ)でしょう。噂は聞いている」

 「わかっていても作れない。産業の規模が違うからだと私は思います。関東大震災の時、聖路加を創設されたトイスラー先生はたまたまアメリカに帰っておられた。病院は焼けてしまいました。で、あちらで親しかったアメリカ陸軍省のパーシング将軍という方に働きかけて支援を頼みました。震災の三週間後にトイスラー先生が帰国した時、アメリカ陸軍の部隊がもう何十ものテントを連ねて臨時の病院を作っていました。ベッドが二百二十五床という立派なもので、検査機械も薬剤も一通り揃っていたと聞きました。『米国政府医療庁野戦病院』という名でした」 「産業が足りない分を精神力で補う。科学者として言えば無理な話です」

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