「円融寺」と「槍の笹崎」2021/11/25 07:10

 「三田あるこう会」の碑文谷散策、碑文谷公園の次に、目黒通りを渡って、経王山文殊院「円融寺」(天台宗)へ向かった。 銀行OBの幹事長の説明では、「円」と金融の「融」の字の入る寺は珍しいそうだ。 それに「経王」とくれば、鬼に金棒、ご利益がありそうな名だ。 目黒通りを横断する時、右手に旧ダイエー碑文谷店(今はイオンスタイル碑文谷というショッピングセンター)の建物が見えた。 父の工場があった清水町は、横断した場所の左手、目黒寄りに位置した。 工場から自転車で中延の家へ帰るには、「円融寺」の前まで行って、門前から真っすぐに武蔵小山に向かう道を使った。 工場から「円融寺」までの、お寺に近い所で戦争直後、ボクシングの笹崎「イ黄」(たけし)さんが佃煮屋さんをやっていた記憶がある。

 その前年に父が死んで、1996(平成8)年の夏に笹崎さんが亡くなった秋、「等々力短信」第752号 1996.10.15.に「槍の笹崎」というのを書いていた。 工場の説明もあるので、以下全文を引いておく。

 こどもの頃、父が好きだったので、よくボクシングの試合を観に、連れて行かれた。 昭和27(1952)年5月19日、白井義男がダド・マリノを破って、世界フライ級チャンピオンになった試合も、後楽園スタヂアムで観ている。 日本人には、日米野球など、そういう機会だけに限って販売されたコカ・コーラの味が、格別だった。

 戦争直後、目黒の清水町(いまは目黒本町という地名になっている)に工場があり、注射薬を入れるアンプルを製造していた。 典型的な家内工業で、ガス細工による職人の手仕事だったアンプル生産を、父は、工場で工程ごとの分業にした多量生産を工夫したり、最初に機械化したりして、おりからの需要の増加に応えることに成功した。

 工場に近い学芸大学(当時はまだ第一師範といっていた)駅の付近には、笹崎「イ黄」(たけし)さんの笹崎ボクシング・ジムや、日大の水泳部のプールと合宿所があって、そこの選手たちを、町の人々が応援していた。 日大は古橋、橋爪、浜口の黄金時代で、彼らフジヤマのトビウオ達は、戦後日本の人々に勇気と希望を与えたが、一方、古橋が買い出しに出かけ、サツマイモを買えたときの喜びは、世界新を出した時の喜びに匹敵したと、後に語っている時代でもあった。 水泳部の連中が、工場にアルバイトに来ていたこともある。 笹崎さんは、ジム経営の一方で、小さな佃煮の店を出していた。

 笹崎ジムは、やがて金子繁治、ファイティング・原田といった強い選手を輩出して、隆盛を極めていく。 その成長の過程を子供の目ながら、リングサイドでながめてきた。 拳闘場の猥雑な雰囲気はちょっぴり怖かったが、飛ばされる気の利いたヤジなどが、結構好きだった。 「馬場忠三郎さんから激励賞が贈られています」というアナウンスが恥ずかしかった。 笹崎さんは礼儀正しい紳士で、笹崎の選手は皆、リングマナーがよかった。 季夫人が、いつもボストンバッグを抱えて、金庫番を務めていた。

 この夏、笹崎さんが亡くなった。 先日兄のところにきた挨拶状に、ピストン・堀口のよきライヴァルであった槍の笹崎さんは、 法名を『鋭槍院達道「イ黄」敏居士』、季夫人は「この名を汚さぬ様私共も精進努力してジムを守り主人の最後の言葉「すえちゃん 愛しているよ」の声を励みに頑張って行く所存です」と、書いておられる。

 13日、父の一周忌を営んだ。 父は、少し後れてやってきた笹崎さんと、日本ボクシングの華やかな時代の話でもしているにちがいない。

<等々力短信 第1149号>は、2021/11/25 07:17

<等々力短信 第1149号 2021(令和3).11.25.>本井英俳句日記2020『二十三世』は、11月18日にアップしました。11月18日をご覧ください。