“フジヤマのトビウオ”の近所で2021/11/29 07:07

 「多少盛んな時期」は昭和29年までだったわけだが、もう一つ思い出に残るのは、日大水泳部の話である。 工場が日大水泳部のプール・合宿所に近かったので、古橋広之進、橋爪四郎ら“フジヤマのトビウオ”たちは身近な存在だった。 好記録を出しながら、日本がロンドン・オリンピックに参加が許されなかった1948(昭和23)年8月、田畑政治水連会長がそれにぶつけて日本水泳選手権大会を同時開催した(このことは2019年の大河ドラマ『いだてん』に描かれた)。 記録上で彼我の優劣を競うと、1500m自由形で古橋は金メダル、橋爪は銀メダル相当の記録を出し、圧勝したのであった。 敗戦から三年、それが日本国民にどれだけの勇気を与えたか。 翌1949(昭和24)年8月“フジヤマのトビウオ”たちは、南カリフォルニアの日系人団体の支援を受け、全米水泳選手権大会に参加、その実力を世界に見せつけた。 その時、自宅を選手たちの宿舎に提供するなど親切に世話をしてくれたのが、フレッド・和田という人物だと聞いていたが、その和田さんが1964(昭和39)年のオリンピックの東京への招致に特派大使として中南米諸国を回り票固めに活躍したということは、後に知った。

 私が品川区立延山小学校の1、2年生、1948(昭和23)年、1949(昭和24)年の頃、学校のプールを復興させることになったのだろう。 ある日、学校へ行くと、工場に出入りで顔馴染みの大工さん(マゴさん)が、プールの塀を作っていた。 そして延山小学校のプール開きに、PTAに関係していた父が日大の水泳部の選手たちを連れて来て泳がせたのだった。 そのあとは、わが家で大宴会になった。

 父と日大水泳部の関係を知ることのできる手紙について、2006年に「小人閑居日記」に書いていた。

     古橋広之進さんへの父の手紙<小人閑居日記 2006.3.22.>

 古橋広之進さんは、昭和60(1985)年12月2日から31日まで日本経済新聞に、「力泳五十年」と題する「私の履歴書」を連載した。 私は当時、和綴の製本に凝っていて、その連載をコピーして二部つくり、一部を父に、一部は父から古橋さんに送ってもらった。 その時に添えた父の手紙の写しと、古橋さんの返信が残っている。 昨日書いた時期の、一証言ともなると思われるので、以下に父の手紙を引く。

 古橋広之進様
冠省
私の履歴書を拝見し、古い想出が蘇りました。
私は馬場アンプルの親方でして、当時太田喜八郎さんのお向ひに居りました。
床屋さんの佐々木親娘の献身的な奉仕に感じ入りまして、町内の有志達と和水会を結成し、選手諸君と御つきあいを始めました。
インタカレッヂ行きのトラックは私が運転して、合宿から外苑プール迄参りました。
当日村上監督を始め橋爪、浜口、真木、丸山其他の人々は、試合前夜で眠れなかったらしいのに、貴君は高いびきで、起されてからようやくドテラを羽織ってネボケまなこで乗り込んできました。
あの豪胆さが後の偉業につながったのだと、つくづく思い出します。
延山小学校のプール開きに花を添えて頂いた事。
文春に書かれた武蔵小山の和可奈(可奈、原文は変体仮名)寿司を驚ろかせた事。
丸の内の壮行会。
ロスの和田さんのお話。
帰朝されて、生れ変った様にパリットした青年紳士が会社の玄関に立たれた時は、目のさめる様な光景でした。
お土産に頂いたパーカーの万年筆も忘れません。
毎日楽しく新聞を拝見しました。
プリントして製本したのは当時小学生だった次男の紘二です。 この様なことが好きで、表紙はプールの水の色を表した様です。
ご笑覧頂ければ光栄です。
    一月八日
                           馬場忠三郎