慶応3(1867)年、軍艦受取委員の実相2021/12/10 07:05

 福沢諭吉は、万延元(1860)年咸臨丸渡米の後、慶応3(1867)年に幕府の軍艦受取委員長小野友五郎の一行に加わり二度目の渡米をした。 小野友五郎は、長崎の海軍伝習で測量航海術を修め、咸臨丸にも軍艦操練所の教授方(航海長)として乗船、測量航海技術を発揮し同乗していたジョン・ブルック(この航海に実質的に貢献したアメリカ海軍軍人)に評価されていた。 小野は文久2(1862)年、アメリカと軍艦購入交渉をして、ハリスについで二代目公使となったプラインと、3隻建造を契約した。 しかし、実は、プラインは個人の資格で「エージェント」として行動していた。 一隻目「富士山丸」は慶応2(1866)年に横浜に到着したが、あと二隻分については全く音沙汰なしだった。 そこで幕府は慶応3(1867)年、小野友五郎を団長とする使節団を訪米させ、二隻分の費用を取り戻し、新たに中古軍艦の購入を図った。

 ただの軍艦受取の渡米かと思っていた私は、あらためて『福翁自伝』「再度米国行」を見たら、ちゃんとアメリカの公使ロベルト・エーチ・プラインに買い入れを頼んで80万ドル渡してあったのだが、日本を出る前から先方との談判に必要な80万ドルの受取がないことが、わかっていた。 ちょいとした紙切れに、10万とか5万とか書いてあるものがなんでも10枚、その中にはしかも三角の紙切れにわずかに何万ドル受取りとして、プラインという名ばかり書いてあるのが何枚かあった。 出発前にずいぶん議論して、日本の政府がアメリカの政府を信じたのだ、この書き付けなどは、もとより証拠にしないと出ようと相談をきめて、出かけた。 アメリカに行って、その話をすると、すぐに前の公使プラインが出てきて、「ドウですか船を渡すなり金を渡すなりドウでも宜(い)いと、文句なしに立派に出掛けて来た」(松沢弘陽さんの校注「立派な態度で応じた」)とあった。

 プライン公使(Robert H. Pruyn)は、ニューヨーク州政界で州下院の議長を務めるなど重きをなした政治家で、同州出身のスワード国務長官と親交があり、スワードの要請を受け駐日公使の職を引き受けた。 日本に行くことにした背景に実業家でもあった彼が、多額の負債を抱え、外交官の給与をあてにしたと言われた。 ハリスは、1862年4月に将軍に謁見し、公使解任状を提出したが、その離任前にプラインは到着した。 プラインは、幕府との軍艦建造をめぐる不可解な取引後、1865年4月休暇帰国を名目に離日、6月旅行先から辞表を提出している。

 藤井哲博著『咸臨丸航海長 小野友五郎の生涯』(中公新書)等を参照した、大島正太郎さんはつぎのように述べた。 慶応3年1月、アメリカに向けて出港した小野使節団は、1867年4月22日ニューヨーク着、プラインと面談、先方はワシントンでの決着を約した。 旧暦3月28日、国務省でスワード国務長官と会見、老中連名の書簡手交。 4月1日(西暦5月3日)、ジョンソン大統領表敬(スワード同行)。 西暦5月4日、スワード国務長官、自宅での晩餐会。 プラインがワシントンに来て、小野と面談、西暦5月18日交渉妥結、もって資金返却(約50万ドル)。(当時の50万ドル、現在約14倍とすると700万ドル、円で7700億円になるか?) それで軍艦一隻と武器購入。 旧暦4月11日、南軍から鹵獲(ろかく)した「ストーンウォール号」の購入意思を国務省に伝達、約40万ドルで折り合った。 東艦(あずまかん)となった軍艦である。