「もの」に注目した常民文化の研究2021/12/29 07:13

       (2)「もの」に注目した常民文化の研究

      三津浜(みとはま)で待っていた思いがけない運命

 これより前、昭和6年11月11日渋沢栄一が92歳で亡くなった。 跡取りとして、また喪主として一か月間不眠不休の日が続いた敬三は糖尿病で倒れる。 昭和7年1月から静岡県三津浜で静養することになるが、ここに思いがけない運命が敬三を待っていた。 ふとしたことから、三津浜の隣り部落である長浜の旧家、大川家の当主、大川四郎左衛門と知り合い、同家に伝わる戦国時代以来、明治に至る二千数百点におよぶ古文書を発見することになったのである。 『豆州内浦漁民史料』4巻として、後に公刊されるこの史料は、長男雅英によれば、「四百年にわたる一つの村の生態史として学問上ユニークな価値を持っていただけでなく、ごく若いころから父の心の中で生長しつつあった学問の方法についてのアイディアに具体的な形と基盤をもたらした」ものであった。

       公家、社寺、武家の歴史から一般大衆の歴史へ

 若いときから生物学に興味のあった敬三は、実験、観察、実証によるその学問の方法が、社会科学にも適用されなければならないと考えてきた。

 それまでの歴史的文献の研究は公家、社寺、武家の17世紀以前のものが対象であった。 日本文化の基盤をつくっている一般大衆(「常民」と渋沢は呼ぶ)の生活についての文献資料はきわめて少なく、漁民の歴史などほとんど明らかにされていないことに、渋沢は注目した。 渋沢敬三は「われわれは露頭がどんなに珍奇でも驚くことなく、またきわめて平凡な一見とるに足らないように思えても油断することなく、一応はいずれも学界の貴重な一資料として、その標本を収集保存しておきたい」と述べている。

 柳田国男の民俗学研究が、精神文化に重点を置いているのに対し、渋沢敬三の方法は「もの」に注目した物質文化、生活文化の研究であった。 アチック・ミューゼアムに「民具」(この言葉も渋沢の命名)を収集したのも、それらの「もの」が常民の生活の知恵、生活態度や技術を如実に物語っているからであった。

           屋根裏から民族学博物館へ

 渋沢敬三によってアチック・ミューゼアムに収集された民具は、変転の後、現在は梅棹忠夫館長の国立民族学博物館に収蔵されている。 その間の事情は、梅棹忠夫編『民博誕生』の中の、梅棹館長と宮本馨太郎立教大名誉教授の対談「屋根裏から民博へ」に詳しい。

 宮本「私が紫綬褒章をいただいたのは、民族資料の調査、収集、保存、研究の功績ということですが、こういう仕事は、なくなった渋沢敬三先生がはじめられたことです。 ふしぎなご縁で、わたしが渋沢先生のお仕事をひきついできて、ぶじに国立民族学博物館の梅棹先生にリレーできたということですね。 渋沢先生の残された遺業をまもったということができるでしょうか…。 ほんとうは紫綬褒章は渋沢先生がいただかれるべきだったとおもいますね。」

 梅棹「けっきょく、渋沢先生がはじめられたコレクションが成長して、こんにちの国立民族学博物館になったのですものねえ。 東京・戸越の国文学研究資料館に収蔵されていた全コレクションを、先年、千里の国立民族学博物館まで、東海道をトラックの輸送部隊をつらねてはこびました。 全部で二万数千点ありました。」