「1941日本はなぜ開戦したのか」「日米諒解案」2022/01/08 07:13

NHK総合12月8日放送の「昭和の選択スペシャル」「1941日本はなぜ開戦したのか」の録画を見た。 12月8日は真珠湾攻撃80年の日、1941(昭和16)年生まれの私も80歳、紘二の「紘」は「八紘一宇」の「紘」なのだ。

 出席者、薮中三十二(元外務事務次官)、真山仁(作家)、小谷賢(日大危機管理学部教授)、一ノ瀬俊也(埼玉大学教養学部教授、『断腸亭日乗』で永井荷風が国際情勢や国内状況を的確につかんでいるのを高く評価)、中野信子(東日本国際大学特任教授)、杉浦友紀アナ。 解説コメントは、井上寿一(学習院大学法学部教授)、牧野邦昭(慶應義塾大学経済学部教授・経済思想史)。

 番組では、1941(昭和16)年、日米開戦に至った幾つかの分岐点を挙げて、検討した。 分岐点[1]は5月3日、松岡洋右外相のオーラル・ステートメント。 1937(昭和12)年7月の盧溝橋事件で始まった日中戦争は4年目に入り泥沼化していた。 中国における日米の経済的利害の対立から戦争が現実のものとなり、戦争回避の日米交渉が4月に始まった。 野村吉三郎駐米大使が、ハル国務長官に日米の私人(司祭、神父、軍人、民間人)が作成した「日米諒解案」を示した。 日中間の協定による日本軍の中国からの撤退、中国の独立尊重、日米間貿易の通常状態への回復などだが、アメリカが満州国を承認すると受け取れるような内容が含まれていた。

 これに対し、4月16日、ハル国務長官から野村吉三郎大使に次の「四原則」が示されたが、野村大使はそれを本省に報告しなかった。 1. 全ての国家の領土の保全と主権を尊重すること、2. 国家の内政に干渉しないこと、3. 特定の国で商工業を行う機会均等、 4. 太平洋地域の現在の状態を変更しない。

 松岡洋右外相は、「日米諒解案」にあるアメリカが満州国を承認するような内容は甘すぎると感じて、反発、5月3日、「日米諒解案」に否定的な日独伊三国同盟の重要性を謳うオーラル・ステートメントを発表した。 松岡はアメリカ留学の体験があり、アメリカ人に不信を抱いていた。

 アメリカも、松岡外相の内は日本は三国同盟から抜け出せないと判断した。 6月になってハル国務長官が改めて「四原則」にもとづく立場を表明し、「日米諒解案」は泡のように消えた。