明治8(1875)年6月の「国権可分の説」2022/01/28 07:07

 福沢の人民と明治政府に関する主張が二転三転することの、歴史的背景との関係をくわしく見てみる。

 ①明治8(1875)年6月の「国権可分の説」(『民間雑誌』第12編)(『福澤諭吉全集』第19巻525頁)。 自信にあふれる文明の論で、王制維新は英仏の市民革命と同一のものとみる。 自由の党、リベラルパーチの人民が政府の専制を倒した。 維新革命を世界史的な視野で理解。 人民が国家の政府に関わるのは当然だから、その先には民会がある。

 当時、明治政府は分裂していた。 明治7(1874)年1月征韓論に破れて下野した板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の前参議が民選議院設立建白書を出した波紋で、明六社でも加藤弘之らが議論していた。 台湾征討に反対して木戸孝允が参議を辞任。 大久保利通は、清国から50万両を受け取り、木戸の復帰を求めた。 明治8(1875)年2月、大久保は木戸、板垣と大阪会議で協議し、立憲政体への詔勅を出し、地方官会議を設置し、その議長に板垣が就いた。 だが二人の頭には、人民の政治参加はなかった。

 福沢は、この流れは自分と同じ考えだと、歴史の主流に自分がいると感じていた。 現状もいまだ政府の専制、人民の卑屈に見えるが、明治政府の専制は、開闢以来わが国政に施した「専制の餘焔」である。 今の政府に関わる人物は専制を嫌ってこれを倒したのに、古来の習慣でまだその「餘焔」に制せられている。 人民に気力なく、政府に権威なく、これに加えて外国からの圧迫がある、何に依頼して国を保つことができるか。 今日の急務は、人民と政府と東西に分れ、その番付を定めて約束を立てることだ。 今の国権を平均して、政府と人民と相半せんとするには、左院なり元老院なり、地方官会議なり民選議院なり、市会なり区会なり、その体裁・名目を問わず、双方に分れて互いに相制するの法を設けなければならない。