「ボタニカ」の歴史、シイボルトの弟子伊藤圭介2022/02/05 07:16

 牧野富太郎は、佐川小学校中退にもかかわらず、明治10年、佐川小学校の校長に頼まれて臨時雇いの教員「授業生」になる。 月俸3円、山ほどもある買いたい本が買える。 毎日、野山を植物採集で歩き回る。 画帖や採草道具は頭陀袋に入れ肩から斜め掛けにし、根から掘り取る木製の特注大匙、小桶に油紙や麻紐、風呂敷、洋物屋から購った西洋のブリキ製の大中小の箱、これが歩くたびにガチャガチャ鳴るので、小学校の生徒は陰で「轡虫(くつわむし)」と呼んでいるらしい。 五つ下の友人克禮(かつひろ)の父、堀見久庵は医者で夥しい書物を持っていた。 土佐で漢方医学を、大坂で緒方郁蔵に産科、緒方洪庵に内科、華岡青洲の合水堂で外科と眼科を修めた。 富太郎に、宇田川榕菴の『菩多尼訶経(ボタニカきょう)』(『植学啓原』より古い文政5年板行)、「ボタニカ」とは植学、リンネの植物分類法、植物の学問を植学という言葉で表したのも榕菴、50数年前の仕事だと教えた。 さらに「ボタニカ」には、もっと広く大きなもの、生きとし生けるものの世界、という意味がある、とも教えた。

 明治12年春、富太郎は小学校の授業生を辞め、高知に出て五松学舎という私塾に入る。 市中の書肆で、岩崎灌園の『本草図譜』のうち、山草の類の筆彩写本を入手し、精密な画に見入り、模写した。 その本屋で、先に『本草図譜』を富太郎に買われて口惜しがる高知中学校教師、永沼小一郎と知り合う。 永沼は、植学を志しているなら西洋の書物を原書で読むべきだ、サイエンスも広く識るべし、という。 今から百年以上前にリンネが学名というものを提唱した、世界共通の学名があれば、仲間かどうかの分類、体系化が図れる。 目の前の植物が何者であるか、もし無名の新種だったら、名を付け、世間にお披露目できる。

 近代の植学は、リンネから始まり、その弟子のツュンベリイという学者が安永(百年ほど前)の頃、来日してわが国の植物を採集して、帰国後『フロラ・ヤポニカ』(『日本植物誌』)という書物を著した。 それを愛読して、来日時に持参したのが、かのシイボルト、日本人の弟子の一人と共に、『フロラ・ヤポニカ』に収録された日本の植物を調査して、和名を探す研究をした。 シイボルトは例の事件で帰国したが、その弟子は後に『泰西本草名疏(めいそ)』を刊行、附録にリンネが定めた植物分類体系を花の解剖図を添えて紹介した。 リンネは雄蕊と雌蕊の数で植物を分類したからだが、彼はその訳語も作ったのだ、雄花、雌花、花粉もだ。 富太郎は、その弟子は洋学者の伊藤圭介か、と聞く。 本草学者、博物学者の伊藤圭介、今も健在で、東京大学理学部で員外教授、附属の小石川植物園を担当している、と永沼。

 明治14年、数え20歳の富太郎、相も変わらず山野を歩き、雨の日は蔵の二階に籠もって採取した植物の整理や描画、読書と写本に明け暮れている。 祖母に、東京は上野の内国勧業博覧会に行く、堀見久庵・克禮の縁続きの大地主、慶應義塾に学んだ堀見熈助(てるすけ)が園芸館に出品した佐川の一歳桃と若樹桜(ワカキノサクラ)が褒状を受けたのでと言い、いつものように、すんなりと許してもらう。

 浦戸から蒸気船で神戸港、神戸から京都まで陸(おか)蒸気、歩いて鈴鹿峠を越え、四日市から蒸気船で横浜港、陸蒸気で東京、新橋ステーションへ。 駅前で「コラ、国はどこか。名と、齢(とし)」と薩摩らしい巡査。 「博覧会の見物に来たがです。あの福沢諭吉先生も『西洋事情』で書いちょられるじゃないですか、博覧会は知力工夫の交易じゃ、と」