三万円の負債、神戸の青年資産家池長孟2022/02/16 06:21

 だが大正5年、月給35円、家計の逼迫はもはや激烈で、高利でも貸してくれるところからは借り、ついに書物と標本まで債権者に持っていかれる羽目に陥った。 壽衛に訊くと、たぶん三万円近いと言う。 断腸の思いで標本十万点を外国に売ろうとしたら、噂を聞いた東京朝日新聞の渡辺忠吾記者が記事にし、大阪朝日も記事にした。 すると大阪朝日に、日立製作所を設立した鉱山王、久原財閥の房之助と、京都帝大法科の学生で、養父の資産を引き継いだ池長孟(はじめ)から電話があった。 池長は標本を買い取り、牧野先生に寄贈すると言っているという。

 12月末、大阪朝日新聞で「天声人語」を担当している如是閑、長谷川萬次郎が仲立ちになり、「池長孟は、牧野富太郎の十万点の植物標本を三万円で買い取り、それを牧野富太郎に寄贈する。ただし、標本は神戸に搬送の上、会下山(えげやま)の正元館にて保管、植物研究所を設立する。池長孟は牧野家へ月々若干の援助を行なう。牧野富太郎は毎月一回は神戸に足を運び、研究を行なう」という契約が結ばれた。

 池長孟は三万円の負債の整理をしてくれ、富太郎は、夢中になって神戸に通い続けた。 しかし、標本の整理と植物研究所の設立は、なかなか進まなかった。 池長孟は標本を京都帝大に委ねようと言い出し、大正11年になっても研究所の運営と標本の行先は膠着したままだった。

 昭和15年、富太郎は研究の集大成である『牧野日本植物図鑑』を北隆館から刊行、池長孟は自らの南蛮美術コレクションを展示公開する「池長美術館」を完成させた。 富太郎は美術館を訪ねて祝いを述べ、池長も出版を祝ってくれたのである。 そんなこともあり、昭和16年になって、膨大な数の標本と書籍はどこにも譲渡や売却されることなく、富太郎の許に返ってくることになった。

 それで思い出したのだが、昨年12月25日BSプレミアム『名品の来歴』「聖フランシスコ・ザビエル像」で、池長孟の名を知った。 旅人(案内役)は、『鎌倉殿の13人』で北条政子の妹実衣を演じている宮澤エマ。 大正9(1920)年、旧高山右近領だった大阪茨木の小さな集落、近くにクルス山のある千提寺地区の東藤次郎宅に近所の青年僧藤井大超が再三通い、300年間秘蔵されていた櫃(ひつ)の中から、この「聖フランシスコ・ザビエル像」を、「マリア十五玄義図」などとともに発見した。 昭和10(1935)年「瓦屋のぼん」と呼ばれた神戸の資産家、池長孟が南蛮美術館設立のため、今の5千万円で購入し、後に1951(昭和26)年神戸市立博物館の所蔵(重要文化財)となった。 なお池長孟の子、潤(74歳)はカトリック大阪大司教だそうだ。