首都機能が広島へ移転、帝国議会も明治天皇も2022/03/07 07:11

 そんなわけで、堀川恵子さんの『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』を入手した。 「序章」の書き出しで、いきなりガチンとやられた。 「明治27(1894)年、日清戦争を機に、東京の大本営が広島に移されたことはよく知られている。」とあるが、それも、ぼんやりとしか知らなかった。 問題は、その次である。 「帝国議会も衆議院・参議院ともに広島に議場を移し、議院たちが大挙して押しかけた。首都機能が丸ごと地方に移転した、近代日本唯一の例である。その特異な様子は、広島市中に陣取った文武百官の住所にもうかがえる。」とあるのだ。 これは、全く知らなかった。

 堀川恵子さんは、続ける。 「たとえば総理大臣・伊藤博文の居宅は大手町4丁目。参謀本部次長の川上操六は大手町3丁目、第一軍司令官の山県有朋は比治山(ひじやま)の麓。山県の後を継ぐ野津道貫は大手町8丁目。新聞社主筆の徳富蘇峰が滞在した旅館は大手町4丁目。人力車で数分の距離に国内の要人すべてがそろった。」

 「極めつけは広島の1丁目1番地たる広島城に、明治天皇その人が寝起きしていることだ。「廣島大本営職員録」によれば、侍従長はじめ大膳職(食事や儀式を担当)、庶務、会計、警備担当など66人の職員が広島に随行した。」

 「開戦から3ヵ月後の10月5日、明治天皇は勅令第174号を以て「臨戦地境(戦時にあって警備を要する地域)」の戒厳令を布告。広島を「戦場」並みに位置付けた。天皇自ら就寝するまで決して軍服を脱がず、侍従にも軍服を着用させた。戦地の兵隊と同じように過ごさねばと城内への女官の立ち入りを禁じ、ストーブを持ち込むことすら拒んだ。約7ヵ月の広島滞在の間、大本営から外に出たのはわずかに四度だけだった。」

 「帝国議会 広島」で、検索した。 明治27(1894)年8月1日に始まった日清戦争において、日本は大本営を広島市中心部の広島城内に設置して戦争行動を指揮した。 大本営に広島が選ばれた理由は、当時日本から中国大陸への最大の兵站拠点の一つが宇品港だったことが挙げられる。 9月15日には大元帥である明治天皇が行幸し、「当分の間」滞在することになったことを踏まえ、第4回総選挙結果を受けた帝国議会も特例として広島市で開催することとなった。 10月18日より一週間の会期で、「第7回帝国議会」が開かれ、臨時軍事費予算案(1億5千万円余)や戦争関連法案が審議され、全会一致で可決された。 10月22日閉会。 明治22(1889)年の帝国議会開設以来、この年春に至るまで、明治政府(第二次伊藤内閣)と衆議院が激しく対立していたが、政局は日清戦争を転機に一転して挙国一致体制となった。

帝国議会が開催されることになって、広島市中心部に「広島臨時仮議事堂」が設計から竣工までほぼ20日間という突貫工事で建てられた。 設計は妻木頼黄(よりなか)、日本橋や旧横浜正金銀行本店、横浜の赤レンガ倉庫を設計した人だ。 東京以外で唯一建てられた国会議事堂であるという。

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