鎌倉「海側のまちづくりの歴史」2022/03/16 07:01

     鎌倉「海側のまちづくりの歴史」<小人閑居日記 2015.11.14.>

 『ブラタモリ』#5「鎌倉」の後半は、「海側のまちづくりの歴史」。 材木座海岸の小坪・逗子寄りの端に案内役、神奈川災害考古学研究所の上本進一さんが現われた。 波打ち際で、NPO鎌倉考古学研究所の古田土俊一さんが、何か拾っている。 鎌倉時代の器の破片、かわらけ、青磁などが、難なく見つかる。 遠浅の海で、川を流れて来たものが、ここらに打ち寄せられるのだという。

 その先の突堤の付け根に、大きな石がごろごろしている(干潮時)。 鎌倉には天然の良港がない。 そこで鎌倉時代(貞永元(1232)年)、港がつくられた。 和賀江嶋(わかえじま)、現存する「日本最古の築港跡」だそうだ。 グリーンの石は丹沢からの凝灰岩、赤い石は伊豆・箱根から運び、波が削った岩盤(波触台)の上に積み、1か月足らずで築港したといわれる。 人海戦術だったろう。 鎌倉の海の拠点となった。 (「材木座」の地名は、文字通りここが遠方から運ばれた建築資材を取引する場であったことを物語る。)

 港をつくったことで、鎌倉の地形が変わった。 材木座6丁目13では海抜3.7メートルなのに、5丁目12では海抜6.2メートルと高くなっている。 ここは砂丘の上になる。 和賀江嶋をつくったことで、砂が多く溜り(堆積)、その砂が風によって運ばれ、沿岸の砂丘が成長した。 材木座砂丘の地形を、その名に記憶する「そば処 土手」というお店があった。

 若宮大路の鎌倉警察署横にある鶴岡八幡宮の「一ノ鳥居」に立つと、そこが由比ヶ浜砂丘の頂上で、海の方にも、八幡宮の方向にも、下がっていることがわかる。 ここが鎌倉時代の都市「鎌倉」=「鎌倉中」の境界で、海側は「前浜」と呼ばれ、人が住まず、処刑場などがあり、今でも掘ると人骨が沢山出るそうだ。

 『ブラタモリ』#5「鎌倉」、「もともとはさまざまな弱点を抱えていた鎌倉、でも800年前の人たちは、山や海の地形をうまく利用して「武士の都」をつくりあげた。 そのすばらしい「まちづくり」がよくわかった旅だった」というのが、結論だった。