旧岩崎邸、福沢諭吉協会の見学会2022/03/21 07:03

 湯島の旧岩崎邸には、二度行ったことがある。 まず、平成13(2001)年5月17日に福沢諭吉協会の一日史蹟見学会で行き、さらに平成28(2016)年10月8日に慶應志木会・歩こう会「田端から本郷、湯島までを歩く」でも行った。 福沢協会では、静嘉堂文庫の岩崎家歴史担当特別顧問の原徳三さんのご案内で、近くにある三菱史料館と合わせて、解説を受けながら見学した。 ほとんど忘れていたが、平成13(2001)年6月の『福澤手帖』109号に、当時は法学部4年生だった都倉武之福澤研究センター准教授の「池之端の陰陽」という見学記があって、これが素晴らしい、多少思い出すこともできたが、以下はもっぱら都倉武之さんの見学記に負う。

 今はなき池之端文化センターで昼食後、岩崎邸を設計したイギリス人建築家ジョサイア・コンドルと、岩崎邸の建築様式について、原徳三さんのレクチャーを受けている。 若干24歳で何の実績もなかったコンドルを雇った明治政府の先見の明。 鹿鳴館、三井倶楽部、ニコライ堂をはじめ、数々の建物を手がけ、教育者として日本の西洋建築家たち、東京駅の辰野金吾、迎賓館の片山東熊、明治会堂の藤本寿吉、慶應義塾旧図書館や三菱一号館の曽禰達蔵らを育てた。 日本人の妻を娶り、日本画の河鍋暁斎に弟子入りして「暁英」の号をもらった、ジャポニズム精神を持つ日本文化の紹介者でもあった。

 数奇な経歴を持つ土地である。 遠い昔には、海に張り出した台地に縄文人が住む「湯島貝塚」の地であり、弥生式土器が出土した弥生町も近い。 近年の調査では、平安時代の住居跡も発掘されている。 江戸時代には、井伊、酒井、本多に並び、徳川家四天王の一つ越後高田十五万石榊原家の藩邸が置かれていた。 明治維新後、旧舞鶴藩主牧野弼成の所有となり、「人斬り半次郎」の異名を持つ桐野利秋も一時住んだというが、西南戦争で戦死した。 岩崎家の所有となるのは、明治11(1878)年、今の建物が出来たのは明治29(1896)年である。 第二次大戦後は米軍が接収、諜報機関 CIC(通称キャノン機関)が「岩崎ハウス」と呼んで本拠地として使用した。 その後は日本聖公会の所有を経て、国の所有となり、平成6(1994)年まで最高裁判所司法研修所が置かれていた。 文化庁で少しずつ修復が行われ、この平成13(2001)年東京都に移管され、公園「旧岩崎邸庭園」として公開されることになった。

 重要文化財岩崎邸管理人の末武芳一さんから、この建物の見所、由来について説明を受けた。 1万4千4百坪の敷地に、主に応接用の洋館と、住居の和館が建設された。 コンドル設計の洋館は、中央に塔を配しジャコビアン様式を基調として、コンドル独特の様々な技巧が凝らされている。 窓の上に、梅の花の彫刻があったりする。 木造なのは、久彌がアメリカ留学中に木造家屋に慣れ親しんだ影響だといわれる。

 洋館前に巨木が取り囲んだ広大な芝生がある。 上野戦争の時、榊原邸より「榊」の字から「神木隊」と名乗る藩士たちが彰義隊に加わって、寛永寺の穴稲荷門を守った。 すると、この庭から官軍の大砲が打ち込まれたという話もある。

 和館は、司法研修所を建てた際にほとんどが取り壊されたが、大広間の部分は残っている。 天井の高さは3メートル50センチ、欄間も菱形、釘隠しも菱形だった。

 都倉さんは、岩崎久彌という人の実像は、いわゆる「金持ち男爵」とは違っていたようだと、「久彌の処世の態度を見るに、終始一貫実業に徹し実業界の向上発展に献身してをり、その私生活は一個の自由人として庶民生活をなし、品格のある近代紳士として行動してゐる。このやうな生活態度は福沢の主張したところであつて、畢竟福沢の主義思想を忠実に実践したものといつてよい」という『岩崎久彌伝』を引いている。

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